細川氏の転封にともない、その旧領を宛行われたのは、小笠原一族であった。小笠原氏は清和源氏の流れをくむ、加賀美遠光の子長清が甲斐国小笠原(現山梨県中巨摩郡櫛形町)に居住し、それにちなんで朝廷より小笠原の姓を下賜されたことに始まる。長清は父遠光とともに源頼朝の挙兵に従い、また承久の乱に際しては東山道の大将として軍功をあげ、阿波の守護職に任じられている。長清の子長経の時、比企氏の乱に連座するにおよんだが、名門の御家人として、特に武家礼法の指南役として幕府に仕えた。七代貞宗の時、足利尊氏の挙兵に従って軍功をあげ、建武二年(一三三五)に信濃の守護職に任じられたが、室町時代を通じてその領国支配は、村上・諏訪・高梨ら土着の豪族の反抗にあい、また守護職も一時斯波(しば)氏に渡るなど、安定したものとは言えなかった。さらに、嘉吉二年(一四四二)に十一代政康が死去した後、従兄弟の関係にあった小笠原宗康と持長の間に「嘉吉の内訌」と呼ばれる家督相続の争いが起こり、幕府の裁定にもかかわらず、文安三年(一四四六)には同族を二分して兵火を交えるに至った。以後、小笠原氏は二派に分かれ(府中と伊那松尾)、抗争を続けることとなったが、後には両派とも家康に仕え、近世大名へと成長した。すなわち、府中小笠原が後の小倉小笠原家であり、伊那松尾小笠原が後の越前勝山小笠原家である。
府中小笠原十九代の秀政は、元和元年(一六一五)大坂夏の陣において、嫡子忠脩(ただなが)とともに戦死したが、家康はその遺領信濃国松本城を忠政の二男忠政(のちに忠真(ただざね))に与え、同三年には二万石加増の上、播磨国明石に一〇万石を宛行った。またさらに、寛永三年(一六二六)には、大坂夏の陣で戦死した忠脩の子長次に、忠真と同じ播磨国において六万石が宛行われた。
寛永九年、細川氏の転封にともなって、その旧領には、小倉に忠政(企救・田川・京都・仲津・築城の各郡および上毛郡の一部、一五万石)が、中津に長次(八万石)が、龍王に忠真の弟で摂津国三田(さんだ)城主の松平重直(しげなお)(三万七〇〇〇石)が、そして豊後木付には秀政三男の忠知(ただとも)(四万石)が、それぞれ配置された。譜代の小笠原一族が豊前・豊後に配置されたのは、まさに「九州御目付」的な役割を果たさせんがためで、これによって九州における徳川幕府の安定した支配体制が確立するに至ったと言える。
細川忠利の正室千代姫は、小笠原忠政の妹であり、両家は縁戚の関係にあった。そのためもあってか、惣庄屋の内、有能な者を残すなど、細川氏よりの領地の引き継ぎは懇切に行われた。また、家臣への知行割りに必要な郷帳を小笠原氏に渡すため、忠興が懸命に(熊本へ送った荷物の中から)それを探していることも知られ、こういった領地支配に必要な諸帳面も引き継がれていったのである。中でも、検地帳が引き継がれたことは重要で、小倉小笠原藩が入部後に検地を実施せず、途中「水帳改正」を行ったものの、実質的には細川氏から引き継いだ検地帳が明治初年まで生き続け、後代になるほど多くの矛盾が表出する原因となった。さらに、小倉小笠原藩の雑税の中には、「反別麦」や「五分種子利米」など細川時代の雑税を踏襲したものが見られ、支配のごく基本の部分において、前領主の影響を色濃く残していたのである。