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キリシタン禁制

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天文十八年(一五四九)にキリスト教宣教師として初めて来日したフランシスコ・ザビエルをはじめとするイエズス会宣教師らは、最初大名を改宗させた上で、その権力を利用しながら家臣団および民衆を集団改宗させるなどして、急速に信者を増加させていった。また信長が宣教師を保護し、キリスト教の布教を助けたことは、あまりにも有名である。さらに、天正七年(一五七九)に来日した東インド巡察使ヴァリニアーノは、布教政策の転換を行い、西欧キリスト教を日本文化に適応させた形で布教し、土着の文化を評価・尊重しながら、少しずつキリスト教の普遍的価値を説くことを始めた。この布教政策は当時のキリスト教海外布教活動にとって革命的とも言えるものであったが、ヴァリニアーノはさらに日本人キリシタン(同宿)を組織して、彼らとの連携によってキリスト教改宗者を増やしていった。
 九州平定を実現した秀吉は、天正十五年(一五八七)六月十八日に大名に宛て、また翌十九日には宣教師らに宛てて、いわゆる伴天連(バテレン)追放令を触れ出したが、これは布教と貿易を分離することを意図したもので、キリシタンが政治勢力にまで成長することを警戒したものにすぎなかった。事実、これ以後キリスト教布教活動は、天正遣欧使節が持ち帰った活版印刷機によって、本格的な文書伝道が可能となったことなどにより、質的に向上していくのである。
 しかし、慶長二年(一五九七)に起こった、秀吉の二十六聖人の処刑を契機に、キリシタン禁制は実質化の道をたどり、続く徳川幕府は慶長十七年(一六一二)八月に幕府領に対して、翌十八年十二月には全国の諸大名に対してキリシタン禁制を触れ出したのであった。
 細川時代初期の小倉や中津には伝道所や天主堂が建ち、イエズス会員もおり、領内のキリシタンは二〇〇〇人を超えていたと言われる。しかし、慶長十八年の幕府キリシタン禁令が触れ出されてからは、それに従い、同十九年二月には早速キリシタン改めを実施し、元和四年(一六一八)などには改宗していない者を極刑に処した。
 小倉小笠原藩は、島原の乱(寛永十四年=一六三七)に出兵した際に分捕ったキリスト像と、小倉円応寺近くから出土したキリスト像の二つを所持していたが、毎年この像を持ち回って、一五歳以上六〇歳未満の男子を対象にそれを踏ませて、宗門改めが実施された。絵踏みによる宗門改めは、幕府では安政五年(一八五八)に廃止されたが、小笠原藩では慶応二年(一八六六)まで続けられたのであった。