江戸時代には幾度か「大飢饉」と呼ばれる、過度の食料不足に見舞われたが、十七世紀の代表的な飢饉に、寛永飢饉がある。それは、寛永十七年(一六四〇)・十八年の両年が天候不順であったため、全国的に大凶作となり、続く十九年・二十年に飢饉となるに至ったのである。この時、江戸などにおいては、河川に飢死人が放棄されたため、おびただしい数の死体が浮遊していたと言われる。
一般に江戸時代の三大飢饉と呼ばれるのは、享保・天明・天保の各年代に起きた飢饉である。中でも享保の飢饉は、西日本において莫大な被害をもたらした。この飢饉は享保十七年(一七三二)五月下旬から続いた異常気象により、稲に病害虫が大量に、広範囲にわたって発生したため起きたもので、各村々では虫送りを行うなどしてその駆除に懸命であったが、効果は無く、小倉藩領でも多くの餓死者を出した。幸いにも翌十八年が豊作であったために救われたが、単年度のものとしては最悪の被害を出した大飢饉であった。