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寛政期の藩政

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幕府老中として権勢を誇った田沼意次(おきつぐ)が、その職を退いたのは天明六年(一七八六)八月であるが、田沼に続く政権を担ったのは、翌七年六月に老中に就いた松平定信を中心とする譜代門閥層であった。定信が行った幕政改革は、一般に寛政改革と呼ばれるが、それは江戸打ち毀(こわ)しを契機として、旧里帰農令及び農村への公金貸し付けに代表される農村復興策に加え、出稼ぎ奉公の制限、浮浪人の授産、積金による下層民の救済といった社会政策が基調であった。
 この時期、小倉小笠原藩においては、安永六年(一七七七)に家老職に就いた犬甘知寛(いぬかいともひろ)による財政再建を主軸とした藩政改革が実施された。その具体的な施策は不明な点が多いが、安永四年から三年間にわたる面扶持制の実施などによって、藩庫の充実を図ったと言われている。また、寛政期に至って、農村内の無主地の増加は既に放置できない状況となり、潰(つぶれ)百姓の頻出をいかにして食い止めるかが大きな課題であった。そのため藩は「御建替仕法」(寛政六年)などの施策を実施して、本百姓の維持を図ったが、構造的に弱体化した農村の復興には程遠かった。それどころか、田川郡では、寛政五年から一〇年間実施された惣定免制によって、数百軒の百姓が潰れたという。
 また、あたかも農村の荒廃と対をなすかのように、被差別部落の人々に対する、極端な差別政策の強化が行われたのもこの時期である。とりわけ、寛政四年(一七九二)に出された法度は、穢多(えた)身分の人々の衣服を「無紋の青染め」に限定するなど苛虐な内容であった。