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化政期以降の藩政

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寛政四年(一七九二)九月、ロシアのラックスマンが根室に来航し、文化元年(一八〇四)九月にはレザノフが長崎に来航して、日露通商を求めたが、幕府は鎖国の体制を堅持することを表明してこれを拒絶した。さらに幕府は、文化四年(一八〇七)十二月にロシア船を対象にした打払い令を、文政八年(一八二五)二月には外国船全般を対象にして、無二念打払い令を触れ出したが、もはや幕府が望む鎖国体制の維持が出来るような国際環境ではなかった。隣国の清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことは、幕府に大きな衝撃を与え、無二念打払い令を撤回し、薪水給与令を出して、戦争を避ける施策をとらしめたが、弘化元年(一八四四)のオランダ国王の開国勧告には、その勧告自体を批判して拒絶した。その後も外国船の来航は頻発し、打払い令復活も論議させる中、老中阿部正弘は嘉永二年(一八四九)十二月、海防強化の大号令を発し、諸大名に対して恒久的な海防策を講じるように命じたのである。
 そのような中、小倉小笠原藩では文化十一年(一八一四)に「文化の変」または「白黒騒動」とも呼ばれる御家騒動が起き、家臣の四分の一が筑前黒崎に出国するなど、一時藩内が騒然とした。また、以前より続く農村の荒廃は、文化期以降さらに深刻さを増し、反別麦という備荒貯蓄までも放出して、その解消を図ろうとした。特に、人手不足による荒れ地の増加は、その分の年貢を弁済する本百姓層を不安定にし、欠落する者を続出させた。藩は困窮した農村を救済するために、「下ケ米」と称して藩庫の米を分け与えるなどの方策をとったが、逼迫(ひっぱく)した藩財政をもって、荒廃した農村を救うことは容易ではなかった。
 文政十年(一八二七)、藩は田川郡赤池に国産会所を新設し、生蠟(きろう)・楮(こうぞ)・鶏卵などを集荷・販売する国産仕組を実施したが、失敗に終わった。さらに天保四年(一八三三)には買米を主軸とした国産方仕法を開始、同十年にはこの仕法を中止して生蠟方会所を開くなど、専売制の商業利潤をもって藩財政の補強を行おうとした。また、そのための費用は大坂の商人平野屋や小倉城下町の商人を両替元(銀主)とした藩札を発行したり、飴屋・万屋といった在郷の商人を登用して捻出しようとした。
 藩財政の運営に苦慮していたこの時期ではあるが、宇島築港とナンギョウバルの開発という、二つの大規模な土木工事が行われている。
 宇島築港は、中津藩からの小祝浦替え地の申し入れに対して、それを回避することを目的に、郡代杉生十右衛門が建議したものであった。文政四年(一八二一)四月六日に開始されたこの工事は、同八年五月五日に三波止が竣工、同十一年一月八日には町割り、交通路が完成するにおよんだが、総工費は当初の予算九七二貫目余の二〇倍または三〇倍だったと言われる。
 現在の豊津町の中心部を形成する台地は、江戸時代には「ナンギョウバル」(難行原、南行原、南郷原)と呼ばれる原野であったが、天保十年(一八三九)十月から開発工事が実施された。これは郡代原源太左衛門の発意で開始されたもので、田畑を開くことを当初の目的としていたが、結果として在郷町が形成されることとなった。ナンギョウバルは「錦原」と名称が変えられ、御本陣が建てられるとともに、大橋や行事の商人らの居宅などが建設され、その数は大小四〇軒ほどにおよんだ。