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幕末の動乱と小笠原藩

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嘉永七年(一八五四)一月に締結された日米和親条約によって二〇〇年以上続いた日本の鎖国政策は終わりを告げるとともに、安政五年(一八五八)に結ばれた日米修好通商条約によって、日本は世界の資本主義市場へと引き込まれることとなった。
 小倉小笠原藩では嘉永七年(一八五四、十一月二十七日に安政と改元)一月、勝手方引受の小笠原内膳が罷免され、代わって島村志津摩が就任し、四月には河野四郎が郡代に就任した。農村の荒廃状況は相変わらずで、潰百姓や欠落百姓は絶えることがなく、藩の財政も逼迫の度を深め、大坂や江戸の商人に対する莫大な借入金を、まともに返済できるような状況ではなかった。事実、大坂商人などに対する借金を二五〇年賦にするなど踏み倒しに近いものであった。また、藩は嘉永・安政期と国産仕法を改正・強化し、それによって得た金銀を藩庫に入れるよう努めたが、それとともに、その実施過程で関係をもった日田商人との結び付きを強め、彼らから融資を受けた資金(日田商人が借金の仲介をした幕府公金も含めて)で、幕末期の膨大な軍事費を賄うこととなった。
 長州藩に対する第二次征討令の勅許は、慶応元年(一八六五)九月に下り、翌二年六月七日に戦いの口火が切られた。小倉小笠原藩は幕府老中小笠原長行(ながみち)の指揮のもとに、九州方面から戦いに挑んだが、強力な長州軍に後退を強いられ、七月二十日に将軍家茂が死去するや、長行をはじめ出陣中の諸藩の多くは国元へ兵を引いたのである。そして八月一日、藩は自ら城と城下町に火を放ち、戦線を後退させ、行政機能を田川郡へ移した。その後も一進一退の戦闘が繰り返されたが、十月十一日に小倉側が止戦の申し入れをしたことをきっかけに、止戦交渉が始まることになる。