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大政奉還から明治へ

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止戦交渉は、長州側が新田藩主小笠原貞正を人質として差し出すよう要求したため、一時決裂し、小倉藩は領地のすべてを明け渡して、藩士らを他領へ退国させることまで決意したが、長州側の引き留めにより留保した。交渉は、慶応三年一月二十二日に終わり、幕府の軍事行動に二度と加担しないこと、企救郡を長州藩の預かり地とすることなどを確認して講和が成立した。またこの時、肥後へ避難していた継嗣小笠原豊千代丸をはじめとする前藩主(小笠原忠幹、慶応元年九月六日に死去)の家族の居宅を、京都郡稗田村に新しく建設することで確認しあっている。
 藩の行政機能の中心は、小倉城焼失直後、田川郡採銅所に置かれたが、慶応二年十月一日からは香春御茶屋に移され、同年十二月二十日には長州との講和を控えて添田に移転。さらに翌年三月には再び香春御茶屋に戻るなど、まさに右往左往の体を示していた。また、城が焼失した際、主だった財産は持ち出してはいたものの、藩財政は崩壊に瀕し、藩士への俸禄を完全に支払うことはとても出来なかった。
 こういった中、小倉城焼失後、途絶えていた藩士子弟の教育を再開するため、慶応三年五月一日に、寺院に寓居(ぐうきょ)する形で藩校思永館が再興された。また、領内に分散した藩士のために、各所の寺院に支館が設けられたのであった。
 中央では、慶応三年十月十五日に朝廷が徳川慶喜の大政奉還の奏上を受け入れ、同年十二月九日には、岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允といった討幕派が、摂政・関白・幕府を廃止し、総裁・議定・参与を設置するとともに、神武創業の古(いにしえ)に復するという理想を標榜(ひょうぼう)した「王政復古の大号令」を発した。慶応四年(一八六八)一月三日の鳥羽・伏見の戦から、いわゆる戊辰戦争が始まるが、四月には江戸城が開城されるなど、名実ともに江戸幕府は倒されるに至った。元号が慶応から明治に改元となったのは、九月八日のことである。
 ところで、長州藩との和議が成立した際、小笠原藩は京都郡稗田村に藩主の居宅を建設することを申し入れたのであるが、実際はこの段階において、稗田村はその候補地の一つにすぎなかった。新たな藩庁建設地を探すことは、小倉城焼失後の割と早い段階から行われていたが、その場所が正式に確定したのは、明治元年十一月のことであった。この決定は藩士一一八人の投票によって行われ、天保期以降「錦原」と呼ばれていた豊津台地が、その場所に選ばれたのである。藩庁造営工事は、この年の十二月二十四日から開始され、明治三年末までには、ほぼ藩都としての体裁を整えるに至るのであるが、豊津台地は明治四年(一八七一)十一月十四日に改置府県が施行されるまで、「豊津藩」、それに続く「豊津県」の中心地としての役割を果たすこととなる。