四国の長宗我部元親を屈服させた関白秀吉は、天正十三年(一五八五)十二月、目を九州に移し、秀吉に臣下の礼をとった毛利輝元に対して、大友氏との和睦を命じ、宮木右衛門入道宗賦(そうふ)と安国寺恵瓊(えけい)を派遣して調停に当たらせた。この和談は翌天正十四年二月に成立し、島津討伐の体制が整った。
大友宗麟は、この御礼と、秀吉の九州動座を促進するために、天正十四年三月、大坂城を訪れ、秀吉から歓待を受け感激して帰国した。
このころ、秋月種実は田川郡の岩石(がんじゃく)城を攻めて、日田の武士坂本栄仙を戦死させ、馬見城を攻めて、毛利兵部丞を豊後へはしらせた。
天正十四年四月十日、秀吉はいよいよ九州出兵の計画を明らかにし、毛利輝元・小早川隆景・吉川(きっかわ)元春らに対して、黒田官兵衛孝高を西下させることを告げ、豊前・肥前の国人たちから人質をとり、門司・麻生・山鹿・宗像など、秀吉の通路ぞいの城々へ兵や糧食を込め、「丈夫」にしておくよう指示した。