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島津軍の北上と上方勢の渡海

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天正十四年六月、島津義久は肥後八代に出張し、島津忠長や伊集院忠棟を筑後高良山に布陣させ、翌七月、筑前に進撃して、筑紫広門(ひろかど)の五箇山(ごかやま)城を降し、高橋紹運(じょううん)の籠もる太宰府の岩屋城を五万の大軍で包囲し、同月二十七日、総攻撃して、紹運ら五〇〇人余を全滅させた。
 黒田官兵衛・宮木宗賦・安国寺恵瓊らは、七月二十五日、京都を出発し、一〇日余で小倉へ渡り、九月に、立花城へ入った。岩屋城にあった高橋氏の救援は間に合わなかった。
 上方勢の渡海を知った島津勢は、八月二十三日の夜、立花城の包囲を解き撤退した。立花統虎(むねとら)は、島津勢を追撃し、高鳥井城・宝満岳城・岩屋城をつぎつぎと奪回した。
 筑前より島津勢を駆逐した秀吉は、豊前の島津与同者の一掃を目指した。天正十四年十月三日以前に、黒田・宮木・安国寺に指示して、豊前西部四郡の制圧にかからせ、大友義統(むね)・長宗我部元親・千(仙)石権兵衛には豊前東部四郡制圧のために、宇佐郡妙見岳城・龍王城へ陣を移させた。これより前の七月二十日に、長宗我部・仙石ら四国勢を豊後へ渡海させ、島津軍の豊後進入に備えさせていた。
 豊後勢は十日足らずで、豊前東部を平定し、しばらく滞在した。
 

黒田孝高の花押


高橋鎮種入道紹運の花押


立花統虎の花押