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島津軍の豊後占領

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大友義統と四国勢が豊前に出張している留守中に、豊後南郡衆が島津軍を案内して、破竹の勢いをもって府内へ向かって進撃してきた。
 急を聞いて、義統と四国勢は府内へ帰り、その地に七~八キロメートルの地点まで迫ってきた島津軍を討つべく、十二月十三日、戸次へ出陣した。しかし、若い仙石権兵衛秀久の作戦が失敗して、長宗我部元親の子息信親(二十二歳)が戦死するという敗北を喫して、府内へ撤退した。
 島津の大軍の怒濤の攻撃を前に、府内の維持は困難と見た大友義統は、高崎山城にとどまることもせず、再び竜王城へ移った。このことが、のちに所領没収の理由の一つになった。仙石秀久も妙見岳城に入り、秀吉の下向を待つことになった。子息を失った長宗我部元親は船で日振島へ難を避けた。竜王城は、宇佐郡の武士の棟梁であった宇佐大宮司一族安心院氏の居城であったが、天正十一年(一五八三)、安心院麟生が反逆して滅ぼされ、大友氏がその跡を直轄していた。
 このあと、秀吉は、豊前移陣を命じておきながら、仙石秀久が、去る七月十二日の「彼是の人数待請候程は、聊爾の働これ無き様」とか、八月二十五日の「たとえ、かの悪党、合戦を挑み申し候とも、かまいなく堅固の覚悟これあるべく候」という秀吉の命令に背いて、持ち場を離れて豊前に移り、そのために、島津軍の進入を招いた責任を追及して仙石秀久に与えていた讃岐一国の知行を没収してしまった。関白殿下の軍が島津軍に敗れたという恥辱を、仙石権兵衛一人の責任に転嫁して、殿下の面目を保ち、秀吉の家臣たちへのみせしめとした。
 黒田官兵衛・小早川隆景が渡海し、小倉城を包囲すると、十月四日、城主(城代)は降を乞うて赦(ゆる)され、高橋元種も降伏を打診してきたが、折り合わなかったらしい(『吉川文書』『豊公遺文』)。
 

仙石秀久の花押