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羽柴秀長への指示と豊前支配

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秀吉はその後一気に薩摩境まで下り、五月八日、島津義久が自身「一命を捨て走り入る」(『島津文書』)姿をみせたので赦免し、薩摩一国を宛行って、九州征伐を終わった。
 

島津義久の花押

 天正十五年五月十三日、秀吉は弟秀長へ次のような指示を与えた。①豊前の不要な城は破却し、馬ケ岳城と豊後境の城(妙見岳カ)とが離れすぎているならば、その間に一城普請すること ②国々の者どもへ知行を与えるので、忠不忠を糺(ただ)し、諸事油断なく申し付け、毎日でもこまごまと報告して、秀吉の指示を請うこと。秀吉は、弟秀長とこのような細やかな連絡をとりつつ、豊前地方支配の方策を固めていった。黒田孝高の中津築城は、このとき既に構想されていたと考えられる。
 

秀吉の弟 羽柴秀長の花押