黒田孝高は、まず馬ケ岳城へ入城したが、やがて、下毛郡の中津川河口に中津城を築いて移った。これは、秀吉の意向を汲んで、上方との連絡の海上便と鉄砲を使用する戦いに対応する城郭を考えてのことであろう。
黒田孝高は、天正十二年(一五八四)七月には、播州揖東(いとう)郡内に一万石、宍粟(しそう)郡一職(二~三万石)を与えられていたから、豊前において一二万五〇〇〇石(入封後の検地高)の大名に出世したのである。
入封した黒田孝高が最初に出した法令が次の三カ条であったという。宇佐郡の時枝鎮継の城で発したという。
定
一、主人・親・夫に背く者、罪科に行うべき事
一、殺人、或いは、盗人・強盗をなし、又その企て仕る者あらば罪科に行うべき事
一、隠田・畝ちがへ等仕る者、同前の事
右の品々これ有る者、たとひ親類又は同類たりといふとも、ひそかに申し出るべし、その儀、実たら
ば、人しらざる様に一かどほうび遣すべきの事
天正十五年七月 日
この法令を見ると、一、二条は道徳と治安に関する最も基本的な事柄を示したものであり、第三条は検地に関するもので、入封早々検地を実施することを明らかにしている。