ビューア該当ページ

国人の処遇

747 ~ 748 / 1391ページ
黒田孝高が知行宛行状(あてがいじょう)を得た同じ日、宇佐郡の国人で宇佐三家の一つといわれた時枝武蔵守鎮継は、秀吉から一〇〇〇石を与えられたが、黒田孝高の知行地六郡の内から「検地の上」をもって与えられ、鎮継は、黒田氏の寄騎として、家臣団に組み込まれた。黒田氏西下後、直ちに投降した広津・宮成らの豊前の国人たちも、このような形で知行を与えられ、本貫の地から引き離されて、黒田氏の与力となり、城下に屋敷地を割り与えられていったと思われる。これを肯(がえ)んじなかった人々は牢人となるか、農民となるか二者択一を迫られたのである。