天正十五年(一五八七)九月、肥後において大規模な国人一揆が起こった。秀吉はこれを重大に考えた。放置すれば一揆が九州全域に波及し、秀吉が再度九州へ下向しなければならないような事態が生ずると考えたのである。十月二十一日、秀吉は諸方面へ佐々成政(さっさなりまさ)の失政を強調する書状を発し、秀吉の吏僚たちに警鐘を鳴らした。その内容は、
佐々成政へ肥後一国を預けていたが、国人たちへ所領安堵の朱印を与えていたのに、成政は領地を渡さな
かった。百姓たちへも、生活できるよう配慮すべきところ、来年行えと言った検地を強行し、さらに新た
な課役などを懸けたので、一揆を起こさせてしまった。秀吉は唐・南蛮までも出かけるつもりだから、九
州の事は五畿内同然に治めなければならないので、毛利輝元をはじめ、中国衆を直ちに派遣する。それで
鎮まらないときは、弟の大和大納言秀長や養子の秀次、宇喜多秀家、さらに四国の者を送るつもりでいる。
というもので、九州に配置された大名も、肥後へ向けて出張した。黒田孝高も兵を率いて久留米まで出動していた。