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豊前の国一揆

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十月朔日、孝高の留守中、子息の長政の拠る馬ケ岳城へ、各所で国人が蜂起したという知らせがあり、直ちに、長政は久留米の孝高へこれを告げ、自身は兵を集めて上毛郡へ出動した。緒方・如法寺氏らが城井鎮房にくみして兵を挙げ、姫熊山(ひぐまやま)(新吉富村)に立て籠もった。長政はこれを攻略して、馬ケ岳城へ帰り、城井鎮房の籠もる鬼ケ城を二〇〇〇余の兵をもって攻め敗北した。長政は神楽山に向城を築き、三五〇人ほどを置いて、城井の往来を塞(ふさ)いだ。この間に、宇佐・下毛・上毛三郡の国人が挙兵し、犬丸・加(賀)来・福島などの城に立て籠もった。
 長政は馬ケ岳より広津城へ出馬し、鬼木・伊藤田・中尾・緒方らの国人が広津に押し寄せる形勢にあったので、逆襲して上毛郡観音原(大平村)で、鬼木掃部を討ち取り、十一月七日、如法寺庄河底で、城井宗永の被官(ひかん)円藤源兵衛を討ち取った(『津野田文書』)。
 やがて、伊藤田・中尾(下毛郡)・山田大膳・山田常陸介・八屋刑部(上毛郡)らが滅ぼされた(『黒田記略』)。
 天正十五年十月二十二日付の秀吉の書状は、
 
  一、野仲・城井両人の奴原(やつばら)申し合せ、豊前上毛郡野仲古城へ罷出候により、中通り一揆等も少々
    蜂起せしめ、黒田勘解由(孝高)・森壱岐守(吉成)、豊前へ打帰るの由、聞きしめされ候、(毛利)輝元
    着陣たるべく候、相談をとげ、かの古城討果し、一揆撫切(なでぎ)りに申付くべく候
 
と小早川隆景へ豊前一揆の状況を告げ、中国勢の再出陣を命じている。この時、野仲左京は長岩城(第5図参照)に、野仲兵庫(鎮兼)は雁股(かりまた)山に立て籠もったが栗山四郎右衛門に命じて攻め滅ぼしたという。
 

第5図 野中鎮兼の長岩城跡 (耶馬渓町津民)

 十一月十一日、羽柴秀長は森壱岐守へ、黒田孝高の失政が問題となったことを次のように伝えている。
 
  一、一揆言語道断の所行、黒官兵仕やう悪ニよって、かくの如く猥(みだ)りの由風聞し候、その方の儀、
    先書ニ申し候ごとく、取沙汰これ無く候間、いよいよ嗜(たしなみ)専用ニ候
 
 しかし、毛利吉成の領地田川郡岩石城でも一揆の者が立て籠もり、吉川広家勢の加勢を得て攻略した。結局、黒田孝高も責任の追及を免れた。
 佐々成政は豊臣秀吉の吏僚に対する「見懲(みこら)」(『立花文書』)しめとして、肥後一国の知行を取り上げられ、切腹させられたのである。秀吉はこうしたパフォーマンスを得意とし、諸武将の失策を執念深く覚えていて、改易の恐怖に晒(さら)しながら、自分への忠誠を励ましめた。