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城井城攻略ならず

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十二月十日、「城井が事、取詰め、落居幾程あるべからずのよし、尤に候、…自今以後、見懲しめのため候の間、一人も遁(のが)さず、責め殺すべく候」と秀吉は吉川広家に命じているように、城井城攻略にてこずっている(第6図参照)。
 

第6図 城井氏の奥城鬼ケ城の城門 (築城町)

 十二月十二日ごろ、下毛郡の犬丸城が陥落し、数百人が討ち果たされて首が京都へ送られた。続いて、十二月二十一日までに、賀来城・福島城が陥落して、首が京都へ進上された。
 『吉川文書』によると、岩石・城井・賀来・福島の一揆などをことごとく討ち果たし、広津城で越年し、正月十日、吉川広家は長門一宮に帰陣したという。豊前一揆は天正十五年末には鎮定されたということになる。城井鎮房は、小早川隆景ら中国衆の調停に応じ降伏したという。
 天正十六年(一五八八)八月、長野三郎左衛門尉(鎮辰)・原田五郎(信種)・草野中務大輔(鎮永)の三人が肥後へ移され、肥後の城十郎太郎を筑前国内で八〇〇町、伯耆左兵衛尉に五〇〇町が与えられて本貫の土地を離された。
 なお、寛永四年(一六二七)十二月十四日付の『益永文書』によると、「天正十五   月のころ城井、野中両人、一揆ヲ相企て候、宇佐において、益永民部少輔・弟令官九郎・祝(ほうり)対馬太夫・万徳坊・小山田左近・地下五人、この外数十人、組仕り候、それにつき、彼党類同苗親類、残らず相果たされ候」と宇佐郡でも一揆が起こっていた。