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城井鎮房を暗殺

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城井鎮房の最期はいろんな伝説となって語り伝えられているが、『黒田家譜』は、黒田家にとって都合の悪い部分は潤色していると考えられるけれども、次のように述べている。
 
  国中の敵共がようやく滅んだため、城井鎮房も敵対しがたく思ったか、小早川隆景・毛利壱岐守・安国寺
  恵瓊に頼んで、罪を謝し、孝高の旗下に属さんことを乞い、人質を差し出すと詫びたので、降参を許した。
  孝高は人質として子息弥三郎と息女を取った。
  その後、孝高が肥後へ出かけた留守中、鎮房が、突然、手勢二〇〇ばかりを連れて中津城に出てきた。長
  政は、この機会をとらえて鎮房を誅すことを家臣と議し、暗殺した。その後、鎮房の家来の追い払いを命
  じ、城門の内外で、切り合いがあり、多数が討ち取られ、城井谷へも少数の者が逃げ帰って、この報が伝
  えられた。長政は、やがて寒田へ押し寄せ、館を焼き払い、鎮房の父長甫以下一族一三人、中津川に磔
  (はりつけ)にされ、子息弥三郎は孝高に従って肥後に行っていたが、かの地で誅せられた。
 
 貝原益軒は、鎮房の息女を長政の室としたという話を虚説として斥(しりぞ)けている。城井鎮房といったん和睦させ、二カ月後に誘殺したのは、秀吉が指示した策であろう。天正十六年正月、肥後国一揆が再び起こり、毛利輝元を出陣させ、これに小早川隆景・黒田孝高・森吉成に加勢を命じ、京都より、小西行長を派遣して、軍監とし、秀吉へ状況報告させている。このころの秀吉は、事細かに報告させ、秀吉の指示を仰がせているからである。