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大友氏改易される

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ところが、文禄二年正月六日、明国より李如松率いる五万の援兵を中心とする二〇万が平壌を包囲したため、小西軍は、兵三分の二を失う苦戦をして、京城へ撤退した。途中、小西軍が到着する前に、大友吉統軍が鳳山の城を捨てて撤退したため、小西軍は追撃されて、ようやく京城にたどりつき、これを秀吉に報告したので、秀吉は激怒し、大友吉統の行動は、戦の常道を知らない、かつてきいたこともない卑怯な振る舞いであると、全武将へ書き送り、豊後一国の知行を没収して、秀吉の蔵入地(直轄領)とし、吉統の身柄を毛利輝元に預け、のち常陸に移した。こうして鎌倉時代から続いた豊後の名族大友氏は断絶した。
 

大友義統の花押

 大友吉統も、仙石秀久・佐々成政らと同様、一国の知行を没収されて秀吉の吏僚たちへの見懲しめとされたのである。
 黒田長政の家臣小河伝右衛門は龍泉の砦をよく守り、小西軍を無事撤退させた功として、妙見岳・龍王山付属地一万石の秀吉直轄地を与えられたが、伝右衛門は病をえて帰国途中、対馬で歿した。
 黒田軍も京城に撤退して、数年間攻防を続けたあと講和が調い、文禄三年(一五九四)に長政軍は帰国した。