『友枝文書』(『豊前市史』文書資料編七九ページ)に次のような史料が見える。これをどう考えたらよいのであろうか。
坪付之事 | |||
合 | |||
中 | 一所 | 弐段 | 中村名之内 |
ゆさた(ママ) | 一々 | 十五代 | 同 |
門田 | 一々 | 壱段 | 内藤分之内 |
ひかけ | 一々 | 壱段 | 三符之内 |
谷ノ口 | 一々 | 壱段 | 三符之内 |
くほ田 | 一々 | 壱段廿代 | 東分散在地(三筆略) |
右九段廿五代依浮地、永代為下作職、御百性(姓)被仰付候、尤目出候、仍坪付如件
天正十五年八月廿八日
内尾主水佐 兼元
栗山四郎左衛門尉殿(裏書)
右之分、任筋目、従当年、百性(姓)地ニ相定候之間、年貢等之儀、無油断納所尤ニ候、為後日如此候、
以上
八月廿日
栗四右(花押)
利之
利之
裏書きの栗山四郎右衛門の下作職安堵の日付が八月二十日、内尾主水佐兼元の差し出した坪付(つぼつけ)の日付八月二十八日より前になっているのは何故であろうか。
ここに見える「浮地」とは他村に散在する内尾氏の下作職地と思われる。畝歩の単位を用いていないから、検地がまだ行われていないと考えられる。他の文書も同形式をとっているから、栗山四郎右衛門が書式と日付を示し、まず安堵の証判を与えて、その表(おもて)に所持する作職を申告させたものと考えられる。栗山氏の慎重な対応を窺(うかがう)うことができる。
黒田氏の豊前検地に関する史料はほとんど残存していない。宇佐郡では高家(たけい)村検地帳が天正十五年八月吉日となっており、寛永九年(一六三二)検地帳写の奥に「天正拾五年八月十日御検地」とあり、元重村検地写帳の日付は天正十五年九月廿七日となっている。八月~九月に検地がなされている。
元重村検地帳より、黒田検地の性格を考えてみよう。
竹の下 | 六畝 | 倉納 | 三斗六升 | 次右(隠岐守鎮清) | 兵部 |
〃 | 七畝 | 蔵納 | 四斗二升 | 三郎右 | 左近 |
〃 | 壱反 | くら納 | 五斗 | 次右 | 兵部(次右養子) |
〃 | 一反六畝廿歩 | くら納 | 壱石 | 同 | 同人 |
〃 はた | 四畝 | くら納 | 壱斗六升 | 同 | 同人 |
〃 | 弐畝廿歩 | くら納 | 壱斗 | 左近 | |
すミた | 四畝拾歩 | くら納 | 弐斗六升 | 孫二郎 | |
もリかき | 壱反 | くら納 | 六斗 | 佐介 | |
以上三石四斗 |
右の記載形式は、字名・反畝歩・斗代・作人を記す太閤検地の体裁を踏んでいる。倉納とは黒田氏の蔵へ納入する分で、給人へ与えたものではない。一反につき五~六斗の斗代は石盛(こくもり)ではなく実年貢を示すもので、石盛はこの二倍程度の一~一・二石であろうと推定する説(『大分の歴史』(5)・五七ページ)があるが、天正期の検地は、石盛と年貢額が近いのが特徴と考えるべきであろう。検地前の豊前の年貢が、田一反につき、二~三斗が普通であったのだから、五~六斗の年貢は、逃散や一揆を惹起(じゃっき)させるに十分な、とてつもない高年貢であった。「次右」とは次郎右衛門の略称で、元重隠岐守鎮清を指すらしい。兵部は、次右の子息鎮頼が天正六年の日向耳川の戦いで戦死したので、孫女菊に迎えた養子らしい。
上段の人物が作職所持者で、下段が耕作者を意味する。ここでは一地一作人の原則が、まだ行われていないのである。
元重村の石盛の合計額は三五六石余、帳付人数一一七人、内一町歩以上が一七人、三反未満が七〇人、個人的には、安芸(元重安岐守統清)の六町余(石高三六石六斗余)と兵部(元重兵部丞)の四町七反余(石高三〇石余)がとびぬけている。二人は元重切寄(きりよせ)(城砦)の中心的な存在であったが、仕官せずに百姓身分にとどまり、庄屋となったのである。