細川時代の元和八年(一六二二)の『小倉藩人畜改帳』では、元重村は九五六石余と、黒田入封時より三倍近い村高となっている。何故であろうか。黒田時代の豊前は、黒田孝高分一二万石、森勝信分六万石、直轄分一万石で、合計一九万石ほどであったという。しかし、慶長三年(一五九八)の『日本賦税』は一四万石となっている。関ケ原の戦後に、入国した細川氏の表高は三〇万石、慶長六年の検地で四〇万石弱となった。
これは、作人の申告によって検地帳を作成するか、検地竿を一間=六尺三寸または六尺四寸とするとか、屋敷地・畠地まで、厳密に縄入れ(測量)するとか、石盛を上々田から砂田・山田まで細分することによって、合計石高に大きな差異が出るのである。朝尾直弘氏も『大系日本の歴史』(小学館)で、毛利領のように検地はその大名の手に任せたり、島津領のように、石田三成のような検地奉行の竿入れが行われていたり、山城・河内のような地域では三回も四回も検地を繰り返し行っていたりするので、一律に説明できないと述べている。豊前の検地も、黒田氏に任せ、豊前の実情に沿った形で石高を算出したものと考える。