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黒田孝高・長政、家康方へ

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黒田孝高(如水)は、既に朝鮮出兵中から、石田三成と不仲であったという。文禄二年(一五九三)孝高と浅野長政が囲碁中に、石田ら三奉行などが対面を申し入れたが、二人はこれを待たせて、囲碁を打ち続けたので、三奉行は怒って席を立ち、秀吉に讒言(ざんげん)したという。このこと以来、孝高は豊臣秀吉の不興を買った。
 こうした関係から、子息長政も加藤清正・福島正則ら反三成派として、徳川家康に接近し、上杉景勝討伐に当たっても、家康に従って伏見を出立した。長政が何千人を率いて宇都宮まで下ったかは不明である。石田三成が近江佐和山で挙兵したため、家康の陣所小山に引き返し、軍議に加わって、尾張清洲まで、家康の先手として上り、福島正則を家康方に繫ぎとめ、清洲城に家康を入城できるようにし、岐阜城を攻略して、慶長五年(一六〇〇)九月、関ケ原に進出した。
 九月十五日、小早川秀秋を説得して家康方へ内応させ、吉川広家をも寝返らせて、関ケ原の合戦を家康方の勝利に導いた。
 豊前中津城の留守を預かった黒田孝高は、留守の兵が少ないため、領内に触れ回し、蓄えていた金銀を与えて兵を集め、身分の貴賤を問わず、兵として使える者三六〇〇余人を召し抱えたという。
 そのころ、前の豊後の国主であった大友義統が、大坂で毛利輝元の下知をもって、本国を還補(げんぽ)され、豊後へ下向してきた。