九月九日、孝高は、豊後へ向かって中津を出発した。その勢は八〇〇〇余人、孝高の本陣は一〇〇〇余人、都合九〇〇〇余人であったという。
孝高は豊後高田の竹中伊豆守重信が家康に同心したので、留守を預かる子息の采女正重次の兵を加えて、赤根嶺に陣をとった。それから、兵三〇〇〇余を分けて、細川忠興の家老松井佐渡らの籠もる木付城が大友家の宗像掃部ら数千に攻められ、危地に陥っているのを救援させた。自分は富来(とみく)城へ押し寄せた。この城は石田三成方の垣見和泉守の居城で、和泉守は美濃大垣にいて、兄の理右衛門が留守を預かっていた。ここは後で攻めることにして、安岐城へ進んだ。この城も城主熊谷内蔵允が大垣城にいて、一族の外記らが留守を預かっていた。ここも後回しにして、実相寺山に陣を進め、大友義統の陣立石山と対峙(たいじ)した。
九月十三日、大友方は吉弘加兵衛統幸を大将として、石垣原に進出したが、黒田方との激戦で、吉弘統幸が戦死する敗北を喫し、義統は孝高の説得によって降伏し、身柄を常陸国へ移された。
九月十六日、安岐城へ引き返して包囲した。この日、熊谷内蔵允は美濃大垣城で戦死した。九月十九日、安岐城は孝高の説得によって開城した。
九月二十三日、富来城へ押し寄せ、説得したが、同心せず、十月二日、垣見和泉守が大垣城で戦死したことを知って降参した。
その後、孝高と加藤清正は石田三成方についた城の受け取りに動き、臼杵・日田の隈城・玖珠の角牟礼・豊前小倉・香春・久留米・柳川の諸城を請け取り、鍋島直茂・立花統虎を説得し、日向宮崎城を攻略したのち、薩摩境に出陣し、島津領へ攻め入ろうとしたが、島津氏の降伏で帰国した。