忠興は、領国支配にあたり、知行割りとともに城割りを行った。入封以来、百数十の土豪(どごう)らの城砦(じょうさい)があったが、忠興は門司城・小倉城・香春岳(かわらだけ)城・中津城・岩石(がんじゃく)城など九城を残して修復・普請し、他の城砦をすべて破却し、黒田時代に発生した城井(きい)氏ら国人(こくじん)層による反乱の再発を防止しようとした。
知行割りにあたって、忠興は、弟の興元(おきもと)を小倉城代としたが、大名になれなかった不満から、興元は、慶長六年十二月に大坂に出奔(しゅっぽん)した。
中津は、豊前・豊後に広がる細川藩領域の中間点に位置し、領国支配には適していたが、この興元の出奔を契機に、忠興は、小倉城に本拠を移すことを決意した。慶長七年正月十五日、小倉城構築の鍬入れが行われ、城下町の建設も急速に進み、同年十一月中旬に一応完成、下旬に、忠興は中津から小倉に入城したのである(「細川藩譜便覧(はんぷびんらん)角」永青文庫)。
忠興は、中津城を次男興秋(おきあき)の居城としたが、三男忠利が継嗣(けいし)と決まると、興秋は証人として江戸に赴く途中で出奔し、京都で剃髪(ていはつ)した。そのため、一時、志水宗加が中津城を預かったが、まもなく三男忠利が正式に中津城にはいった(第1図参照)。
第1図 細川宗家系図
数字は家督順。『寛政重修諸家譜』などによる。
忠興は、香春岳城には中務少輔孝之(なかつかさしょうゆうたかゆき)(忠興の弟)、田川の岩石城に長岡忠直、下毛の一戸(ひとつと)城に荒川輝宗、宇佐の龍王城に細川幸隆(忠興の弟)、国東の高田城に有吉立行(家老職)、木付城に松井康之(家老職)をそれぞれ城番として配置した(「細川藩譜便覧角」)。小倉城を本城とし、門司城以下の八支城に、細川一門・有力家臣を城代として配置した支城在番体制は、そのまま藩の軍団編成の基礎ともなった(第2図参照)。
第2図 細川藩領と支城配置