(図)
一、同年(元和元年)夏、一国一城の御制法仰出さる、 三斎(忠興)様 妙解院(忠利)様御在城のため、御願に依、 小倉・中津の両城を残し置かれ、其餘の端城は悉 御解去成られ候、此節長岡式部少輔興長居城 豊後木付の城も解去り、小倉の館に住居仕候、 然乍ら、万端在城の格を用い申すべき旨 妙解院様仰出され、家来は過半木付より通勤 仕候 |
忠興は、元和六年(一六二〇)閏十二月二十五日、三男忠利に家督を譲り、剃髪して三斎宗立と号した。翌七年(一六二一)、三斎は隠居城として修復を終えた中津城にはいり、家督を継いだ忠利は、六月二十三日小倉城に移り、八月一日に国受け取りを済ませた。三斎の隠居料は三万七〇〇〇石、中津給人の知行高四万二〇九三石、合わせて七万九〇九三石の中津御領分(三斎隠居領)がここに成立した(「細川藩譜便覧角」)。
「部分御旧記」(永青文庫)には、「中津御領分」「中津御蔵納」などと見え、「本藩年表」(同)が、忠利が藩主となった元和七年から始まっていることからも、本藩は小倉領と認識され、三斎の蔵入地ならびに三斎付き給人知行地は中津御領分として、忠利の小倉領とは分離した存在であった。中津御領分は、上毛・下毛・仲津・築城・規矩郡などに散在していた。
三斎の中津御領分支配が始まるにあたり、村上縫殿介(ぬいのすけ)・魚住伝左衛門・続(つづき)少助を初め船頭まで一二九人の三斎付き中津衆と職人一五人が中津に移り住んだ(「細川藩譜採要五」永青文庫)。三斎蔵入地は独立した存在であり、この蔵入地に立脚する財源や行政機構は忠利側から分離したものであった(朝尾直弘「上方からみた元和・寛永期の豊前細川藩」大阪歴史学会編『幕藩体制確立期の諸問題』吉川弘文館)。しかし、中津の給人知行地から納入される物成・懸物(かかりもの)は、藩主忠利の行政支配機構の下に徴収された。ただ、小物成は、三斎の収入とされた。元和元年(一六一五)時点における細川家臣団の番方構成は、第5表のごとく、中津衆(三斎付き中津詰家臣)一二九人を含めて七八四人である。
第5表 家臣団(番方) | ―元和元年(1615)― |
番 方 | 内 訳 | 人数 | 知 行 高 |
家門衆 | 人 2 | 石 55,000. | |
家 老 | 5 | 54,700. | |
頭 衆 | 23 | 33,155.7418 | |
鉄砲頭 | 30丁頭 | 24 | 14,650. |
〃 | 25丁頭 | 2 | 2,000. |
〃 | 20丁頭 | 7 | 3,800. |
弓 頭 | 弓20張頭 | 6 | 2,650. |
物奉行 | 6 | 2,900. | |
馬廻組 | (6組) | 23 | 8,150. |
〃 | 21 | 7,350. | |
〃 | 22 | 5,650. | |
〃 | 21 | 6,600. | |
〃 | 20 | 6,583.33333 | |
〃 | 22 | 6,300. | |
供之者 | 小姓頭 | 17 | 5,360.84369 |
〃 | 〃 | 14 | 3,883.18252 |
〃 | 〃 | 17 | 4,239.11750 |
〃 | (6組) 〃 | 14 | 5,062.11234 |
〃 | 〃 | 18 | 4,150. |
〃 | 〃 | 12 | 2,550. |
側小姓 | 15 | 2,950. | |
〃 | 9 | 2,250. | |
〃 | 11 | 1,150. | |
+切米30石8人扶持 | |||
〃 | 8 | 900. | |
+切米20石5人扶持 | |||
組 頭 | 8 | 1,100. | |
物書頭 | 7 | 2,631.226 | |
長柄頭 | 2 | 500. | |
乗物〓 | 1 | 300. | |
小者頭 | |||
籏之者頭 | 2 | 200. | |
歩小姓頭 | 6 | 600. | |
組無衆 | 14 | 2,250. | |
鷹 師 | 3 | 300. | |
台所方 | 5 | 695. | |
江戸詰 | 16 | 3,777.59 | |
医者並 | 17 | 3,450. | |
伽之者 | |||
船頭頭 | 12 | 1,460.6794 | |
留主居組 | 60 | 10,868.8454 | |
〃 | 163 | 23,335. | |
中津詰 | 129 | 42,075.38531 | |
合 計 | 784 | 413,596.213606+切米50石8人扶持 |
「豊前小倉御侍帳」(『能本県史料』近世1)による。 |