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家臣団と支配機構

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藩の支配機構としては、軍事機構(番方(ばんかた))と政治機構(役方(やくかた))の二つがある。
藩制成立当初の政治中枢機構は、幕府の職制においても〝庄屋じたて〟といわれるように、細川藩においても必要に応じて奉行を任命するというものであった。
 松井康之・有吉立行を筆頭とする年寄衆の下に、奉行衆数人を置き、年貢収納には蔵奉行、郡方(こおりかた)支配には郡奉行(こおりぶぎょう)を設けるというものであった。
 この時期は、番方即役方という状況で、軍事組織の一員としての番方身分のままで行政的役職に就くという有様であった。そこには、まだ戦国大名の家政機関的色彩を残していた。家臣団編成に重点が置かれ、番方優位の体制であった。
 慶長七年(一六〇二)時点での郡奉行をみると、仲津郡・木付廻の兼帯郡奉行松井康之は、木付城預かりの年寄衆(知行二万五〇〇〇石)であり、都(みやこ)(京都郡)・上毛の兼帯郡奉行長岡宗信は、岩石城預かりの人持衆(ひともちしゅう)(陪臣(ばいしん)を抱えるような大身(たいしん))であり、郡奉行には、支城預かりクラスの重臣がなっている。そして、松井康之が仲津郡と木付廻という地理的に隔絶した地域を、しかも兼帯するという形式的支配の体様であった。
 ところで、元和年間(一六一五―二四)になると、職制も次第に独立し、整備されてくる。慶長七年(一六〇二)と元和元年(一六一五)の郡奉行一覧を、それぞれ第6表・第7表として示しておく。

第6表 郡奉行一覧
―慶長7年(1602)―
郡奉行
規 矩魚住市正
中嶋左近
田 川
京 都長岡肥後守宗信
上 毛
仲 津松井佐渡守康之
木付廻
下 毛加々山隼人興良
宇 佐長岡武蔵守立行
国 東魚住加賀守
杉生左兵衛
速 見
「細川家記」による。


第7表 郡奉行一覧
―元和元年(1615)―
郡 奉 行切米番 方
規 矩神足三郎右衛門200石留主居組
小崎与次兵衛200 
田 川河喜多五郎右衛門500 
釘本半右衛門200 
京都
・仲津
松本彦之進200 
蓑田甚之允150 
築城
・上毛
沢庄兵衛300 
荒木善兵衛200 
下 毛小崎太郎左衛門200 
河喜多九太夫150 
宇 佐沖津佐太夫150 馬廻組
宗像清兵衛300 留主居組
国 東小林半右衛門200 
蒲田次右衛門200 
速 見宇野七右衛門200 
「豊前小倉御侍帳」による。

 元和元年になると、郡奉行は、留主居組・馬廻組の知行高一五〇~五〇〇石クラスが、単独郡あるいは隣接郡を、二人で、実体的に支配している。郡村支配は、惣奉行(そうぶぎょう)が郡奉行・代官以下を支配した。
 次に元和十年(一六二四)と寛永五年(一六二八)の細川藩職制を対比しながら第8表として提示する。

第8表 細川藩職制
元和十年(一六二四)寛永五年(一六二八)
惣奉行惣奉行
横 目横 目
公事聞公事聞
賄惣奉行惣積奉行
町奉行町奉行
知行方奉行知行方奉行
借米銀并懸銀割符奉行惣銀米奉行
小者成并加判奉行
天主之道具并小物成納奉行殿主之道具并小物成請取奉行
武具奉行武具奉行
算用奉行算用奉行
郡奉行郡奉行
代 官代 官
拾郡之横目塩代官
拾郡之山奉行郡横目山奉行
使者客人賄奉行使者客人賄奉行
蔵奉行蔵奉行
闕所米過怠米其外集米銀奉行
并銭奉行
惣銀奉行惣銀奉行
造作銀算用奉行
切米取之遺銀算用奉行
諸職人称立奉行職人奉行
買物奉行買物奉行
漆渋奉行漆奉行
油蠟燭奉行油蠟燭奉行
炭薪奉行炭薪奉行
明家明屋敷并闕所奉行明家奉行
明屋敷奉行
下台所奉行下台所奉行
掃除奉行掃除奉行
人足奉行人足奉行
鉄苧其外普請道具奉行鉄苧其外普請道具奉行
普請奉行普請奉行
留主之役人改奉行留主之役人奉行
作事惣奉行
材木奉行材木奉行
古木竹葭縄葛奉行古木竹葭縄葛奉行
杣奉行杣奉行
鍛冶奉行鍛冶奉行
畳奉行畳奉行
白土奉行白土奉行
進物之帳付
船手之惣奉行船手惣奉行
浦奉行浦奉行
京ニて調物奉行京ニて調物奉行
大坂米奉行大坂米奉行
金山惣奉行金山惣奉行
鉄炮之薬合奉行鉄炮薬合奉行
船作事奉行屋方船方作事惣奉行
味噌醬油奉行
物師賄奉行
馬具奉行
旅之掃除奉行
人割奉行
大坂ニて公義御用調奉行
上台所奉行
膳奉行
表納戸奉行
奥納戸奉行
銀奉行
藺田奉行
「諸奉行帳」により作成。

 この第8表には現れていないが、これら諸職の上に家老職があり、松井・有吉・米田の有力三家臣が世襲的に就任している。
 元和十年の職制は四八と、藩制初期のそれと比べると多様化が進み、さらに寛永期になると、寛永五年の時点では五五と、役職の細分化がみられ、藩制確立期としての体制を整えてくるのである。