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手永制度

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細川氏は、豊前・豊後の領国経営にあたって、「手永(てなが)」制度という、固有な地方(じかた)支配を採用した。この手永とは、自然的な「村」の行政区画であり、細川支配領域の豊前・豊後、転封後の杵築松平藩、転封先の肥後細川藩以外には三河岡崎藩に一例ある。これは、水野氏が肥前唐津在城中、細川氏の制度を見聞し、岡崎に試みたものと考えられている。
 細川藩の農村支配には、惣奉行―郡奉行―惣庄屋―庄屋―肝煎(きもいり)―山ノ口という縦の系列が採られた。各手永には、惣庄屋が一人ずつおり、その名称は、「国作善七郎手永」・「伊良原二郎兵衛手永」などと、惣庄屋名が冠されていた。元和八年(一六二二)時点では、仲津郡は豊津町域の国作・伊良原両氏のほか、大村二郎左衛門・帆柱儀左衛門の四人の惣庄屋がいた。
 手永の規模は、最大クラスが石高で一万石弱、村数で三〇カ村弱、最小は一五〇石弱で、一村一手永も数カ村を数えている。このように、各手永は、規模の上で大小の差異が甚だしく、整然とした行政区画制度とはいえない。水系・山谷系・入会・給人地・蔵入地の知行の在り方など、地域的・人為的条件が作用していたようである。
 手永内の各村には、庄屋・肝煎あるいは山ノ口がいた。庄屋の数は必ずしも一村一人とは限っておらず、泰岩寺上り地と給人知行地(村上八郎左衛門・仁保惣兵衛・関小平次・垣屋権介・香山与介・鈴木助太郎ら六人の給地)である綾野村には庄屋が四人おり、住江武右衛門・井関傅蔵・澤村大學の三人の給人知行地である節丸村には庄屋が三人いた。反対に大坂村のように庄屋のいない村もあった。山谷に立地した村には、山林用益・採草・入会にかかわる山ノ口という村役人もいた。