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朱印船貿易

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慶長九年(一六〇四)江戸幕府は、朱印船制度を制定し、海外渡航の貿易船の船籍と渡航先を証明した朱印状を発給して貿易の保護と統制をはかった。幕府が発給した朱印状は、慶長九年から寛永十二年(一六三五)の鎖国令公布までのおよそ三〇年間に、約三六〇通におよんでいる。朱印状が与えられたのは幕府と特別な関係がある人だけで、大坂平野の代官末吉孫左衛門、長崎代官の末次平蔵らの幕吏、京都の豪商角倉了以(すみのくらりょうい)・茶屋四郎次郎をはじめとする大坂・堺・長崎・平戸の豪商やイギリス人ウイリアム・アダムズ(三浦按針)、オランダ人ヤン=ヨーステンなどのヨーロッパ人、頭李旦・林五官などの中国人のほか、因幡の亀井茲矩(これのり)と九州の島津・松浦・鍋島・有馬・加藤・五島・松倉・竹中・細川などの西国大名であった(第3図参照)。
 

第3図 朱印船と日本町

 慶長十四年(一六〇九)、幕府は、西国大名に対し、五〇〇石積以上の大船の建造と保有を禁止し、海外進出を途絶させようとした。
 こうした逼迫した情勢の下で、同十六年(一六一一)、細川忠興は、暹羅(シャム)渡航朱印状を幕府より下付されている。暹羅国御朱印の部(『通航一覧』巻二六五)に、
 
  一、自日本到暹羅国舟也
      右
      慶長十六年辛亥正月十一日
  羽柴越中守按ずるに、細川宰相忠興なり拝領御朱印、長谷川左兵衛状あり、普界一被恵之、戌十二月二十
  五日書之
 
とある。細川忠興は、正月十一日付で朱印状をうけ、紹介者長谷川左兵衛藤広に染筆料として金銭を贈っている。同年、忠興は、商船を暹羅へ渡航させたが、風に流されて安南国(ベトナム)へ漂着したのである。帰国後、同年八月二十四日、朱印状発給に対する贈献として、忠興は、将軍家康に、象牙・白絹・孔雀(くじゃく)・豹(ひょう)皮などを差し出した(『通航一覧』巻二六五、「松向公綿考輯録」)。なお、翌十七年(一六一二)正月、忠興は、安南国に漂着した細川船を日本へ送還してくれた安南都督華郡公へ対し謝礼の書簡を認め、船主次良左衛門に託している。
 大船建造禁止令発布後の、細川氏の朱印状獲得は、この一回だけである。その後、細川氏の朱印船派遣は途絶したが、寛永元年(一六二四)には、小倉町人が交趾(コーチ)へ客商として渡海しており、藩出入り商人や中国人に海外での買物を依頼している。同二年(一六二五)、問太郎兵衛の渡唐に際し、銀一〇貫目を託し、同三年(一六二六)には渡唐の問紹甫(といのしょうほ)に銀一〇貫目を渡している(「日帳」)。また、同四年(一六二五)に、問紹甫の渡唐に際し、銀一〇貫目を貸し、交趾渡航にあたり銀二〇貫目を託して買物を依頼している(「日帳」、武野要子『藩貿易史の研究』)。
 第9表は、細川藩の領外貿易への出資額を表示したものである。このように、細川氏の朱印船貿易の実態は、藩主独自の派船が一度限りで、あとは中国人や小倉商人を介しての委託買物貿易であった。
第9表 細川藩の領外貿易への出資高
出資年出資額
貫目
元和 6(1620)銀  50
 〃  9   〃  50
寛永元(1624)〃  20
 〃  2   〃 100
 〃  3   〃  40
 〃  4   〃  20
 〃  8   〃  15
武野要子『藩貿易史の研究』による。

 寛永八年(一六三一)、幕府は、老中の奉書を持たない船の海外渡航を禁止し、次第に貿易統制を強化していった。また、同年、中国船積載の生糸が糸割符仕法に組みいれられると、藩は、買物奉行を長崎に派遣して必要な品物を購入することに重点を移していった。
 輸出品としては、領内産の銅・水晶と細川藩が鋳造した「新銭」が主であり、輸入品は、絹織物・綿織物・皮革・伽羅(きゃら)・薬品・陶器類・ぶどう酒・麝香(じゃこう)・龍脳(りゅうのう)・氷砂糖・煙硝・鉛・小鳥その他の嗜好(しこう)品であった。これらは、将軍へ献上品として、また、藩主の嗜好・消費を目的としたものであった。