当時、日本は戦国の動乱の中で、織田信長が台頭していた。全国統一を目ざしていた信長は、激しく対立した越前、伊勢長島など、各地の浄土真宗の一向一揆に見られる仏教勢力が、全国統一の障害になると判断して、仏教の勢力を抑える意図と、宣教師を通じてもたらされる西洋文明や、鉄砲など武器の入手、また、貿易による富に対する意欲もあって、国内統一のため手段として、宣教師たちを厚遇し、教会を保護した。
キリシタンは、信長の保護のもとに、宣教師フロイスらの布教活動によって急速に広まっていった。天正十年(一五八二)、キリシタンの保護者であった信長が、本能寺の変でたおれた。このころ、キリシタンは長崎を中心に広まっていた。その数は、天正十一年に在日宣教師ヴァリニャーニが、ローマに送った報告書には長崎を中心にした地域で一一万五〇〇〇人、府内を中心にした地域で一万人、京都を中心にした地域で二万五〇〇〇人を数えている(『日本巡察記』平凡社東洋文庫)。