ビューア該当ページ

秀吉のキリシタン禁令

780 ~ 780 / 1391ページ
信長のあと、天下人となった秀吉は、初めのうちは、信長の方針を受け継いで、キリシタンの布教に理解を示していたが、九州平定の折、長崎を中心に広がったキリシタンの勢力を目の前に見て、キリシタンの教えが、権力者が民衆を支配していく上で、相いれない教えであり、また、キリシタンの信仰をもつ大村純忠が、長崎の町の一部を、教会に寄進していることは、土地領有の上からも、全国統一の大きな障害になると判断した。そこで秀吉は、天正十五年六月十九日に、博多でキリシタン禁令を発した(第4図参照)。
 

第4図 秀吉のキリシタン・ばてれん追放令
(天正15年)(『切支丹史料集』対外史料宝鑑刊行会)

 しかし、海外貿易については、布教と切り離して認めた。そのため、南蛮貿易とともにやってくる宣教師に対しては、貿易によって得る利益や、伝来する南蛮文化の影響には、大きなものがあるので、実態は、公然と布教活動をしなければ、キリシタンの黙認にとどまっていた。