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細川氏のキリシタン取り締まり

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そのころ、豊前細川領内には、小倉に伝道所一、天主堂二があり、イエズス会員一〇人がいた。中津にも伝道所一、天主堂一があり、イエズス会員二人がいた。細川氏一族は熱心なキリシタンであった。忠興自身もキリシタンであったが、のちに改宗している。中でも藩主忠興の妻玉(ガラシャ)は、信仰を守り通したことで著名である。のちに家督を相続する忠利もキリシタンで、忠興はキリシタンに対して親近を感じて理解を示していた。
 忠興は、身近な者がキリシタンであったことから豊前入封当初はキリシタンに対して好意的で、そのため、細川氏の家中や領民にはキリシタンが多く、その数は約二一〇〇人を数えたという。細川領内の人口の約二パーセントがキリシタンであった。ところが、当初キリシタンに好意的であった忠興は、慶長十六年(一六一一)に、政治的利害から「領内には、宣教師も、教会堂も切支丹教徒も、最早おくことを望まぬ」旨を宣言した(『小倉市誌補遺』)。
 慶長十八年十二月に、幕府のキリシタン禁令の布告を受けて、幕府の方針の遵守徹底が、大名の地位を確保する唯一の保身とする忠興は、同年十二月二十二日、江戸から国元の長岡右馬助・小笠原民部少輔・長岡勘解由・藪内匠・村上八郎左衛門・牧左馬允・中路周防・加納曲斎・長岡式部少輔へ宛てて、次のようなキリシタン改めを示達した。
 
  一ばてれんもんと(門徒)、ことごとく日本の地御払いの事に候、我々下国次第国中改め申すべく候得ども、
   先々郡奉行に申し付け、ばてれん門徒ことごとく付き立て置くべく候、我々下り候てから、手間の入ら
   ず様に念を入れ候べく候、その内ころび候ものはくるしからず候、ころばざる者は、下国次第惣様御法
   度のごとく申し付くべき候間、その意を得べく候、侍これある儀異儀を申し、ころび候様に仕る儀肝要
   に候
  一くるすたう(塔)をはじめ、ばてれんのはか(墓)国中にうちくづすべき候、申すにおよばず念を入るべき
   候、残は郡奉行に申すべき候事
                          (「松向公綿考輯録」松井文庫・熊大図書館所蔵)
 
 これは、家中をはじめ百姓に至るまで、キリシタンの改宗の強制であった。徹底したキリシタン排除を指示した達しで、その内容は、教会堂からキリシタンの墓に至るまで、キリシタンに関連するすべてを破壊して、細川領内からキリシタンの絶滅を目的としたものであった。忠興のキリシタンに対する徹底した行為は領内に多くのキリシタンの存在を物語るものである。
 翌十九年二月には早々に村ごとに、キリシタン改めを実施した。築城郡の「貴理志端御改」(松井文庫)には、転宗者は九四人で軒数にして七五軒、複数の転宗者の軒数は一六軒で、残り五九軒は一軒に一人の転宗者を数える状態で、一家挙げての信仰状況ではなかったが、忠興のキリシタン改宗の強制によって、多くのキリシタンが改宗を余儀なくされた。キリシタンの寺院への転宗は、彼らが所属した寺院と請人(身元保証人)から証文を差し出させた。また、ごゑい(御影)・いまぜ(メダル類)・こんだず(数珠)・くるす(十字架)・本尊(キリスト像)・くりきの物など、キリシタンの信仰道具を差し出させた。
 この改めで、仲津郡からは、二四人のキリシタンの転宗者があった。これは、仲津郡の人口の〇・三パーセントである。多くのキリシタンは、寺院へ転宗を余儀なくされたが、一方では、キリシタンは根強く潜伏して、隠れキリシタンになって、その信仰を続けていた(第6図参照)。
 

第6図 細川領内の教会・宣教師と転宗者
(『大分県史』近世編Ⅱから)