元和四年(一六一八)忠興は、小倉で宣教師オルファネスをはじめ、六歳の幼児を含め二七人、中津で一三人のキリシタンを極刑にしたという(『日本切支丹宗門史』上)。同五年には、転宗に応じない、キリシタンとして著名な、家臣加賀山隼人が、小倉の刑場で死を選んだ。同六年には、六人のキリシタンを小倉の刑場で処刑した。
忠興は、元和六年に隠居して中津へ移ったが、キリシタン取り締まりは、家督を相続した忠利へ引き継がれた。寛永八年(一六三一)十一月十九日付の三斎(忠興が隠居して三斎と改名)から忠利へあてた返書に「其元(そこもと)今にキリシタン御せんさく(中略)一度伴天連(ばてれん)もんとに成り申し候もの、ころび申す事百人の内一両人ならではこれ無きものにて候、其方(そのほう)家中には、一切同類これ無き由、めでたく候事」(『熊本県史』近世(1)部分旧記十五)と、細川家中からはキリシタンは絶えたが、庶民のキリシタン信仰は根強く、転宗する者は「百人の内、一人か二人」であるという。厳しいキリシタン取り締まり、弾圧にもかかわらず、細川領内には、まだ多くの隠れキリシタンがいることを、三斎は示唆している。
享保年間にかかれた「中津記」に、古老の話として「三斎豊前在城の間、斬殺三千人に及ぶと(中略)其ころ郡・国邪宗門の説盛んに行われて、家々戸々もっとも惑乱す、三斎これを悪(にく)んで、刑罰三族に至る故、今に至って一国の内其余燼、類族という者有事なし」と記している。これによると忠興は、豊前在城中に、キリシタンの三族まで処刑して、その数は三〇〇〇人にも及んだという。この数をそのまま実態とすることはできないが、細川氏は、政治的利害から、キリシタンの取り締まり、弾圧は、徹底したものであったことを窺(うかが)うことができる。