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細川忠興の入国

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慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦で石田三成に味方した大名は、徳川家康によって改易(かいえき)(取り潰し)されたり、減封されたりした。徳川に味方した大名や、徳川一門と譜代の家来(関ケ原の戦以前に徳川の家来になったもの)が加増されて新たに大名に取り立てられて、その跡に封ぜられていき、徳川勢力は大きく膨張した。
 徳川に味方した細川忠興(ただおき)は丹後(たんご)国宮津で一一万石の大名であったが(慶長五年二月、家康の斡旋(あっせん)で豊後国杵築(きつき)で五万石の加増地を持つことになったので、実際には一六万石)、関ケ原の戦の功労によって、豊前国全域と豊後国で国東・速見両郡の内を領する大名として加増転封になり、中津城を居城として新しい領地に入ってきた。
 細川忠興は入国の翌年、慶長六年(一六〇一)領内の検地を行い、検地帳を作成した。この検地により領内の田畠の石高は三九万九〇〇〇石余であったと、後世に書かれた「細川藩譜採要」という本に書かれている。このときの検地帳で田川郡弓削田(ゆげた)村の分が残っている。田川郡弓削田村の検地帳を見ると一一五人の農民が耕作に当たっていることが分かる。この人数を後に説明する人畜改帳(じんちくあらためちょう)と比較してみると、約二倍の耕作農民がいたことになる。これはたいへん理解し難いことである。細川忠興の慶長六年の検地に際しては、検地定目(じょうもく)までつくっているが、実際には土地の丈量は行われず、毛利勝信や黒田孝高が行った検地の数字を、そのまま庄屋に報告させ、それを基にして検地帳を作ったのではないかと考えられる。だから一家一作の本百姓制の確立以前の、土地を耕作している者は家長以外の子供、小作人、名子すべてのものが記載され、人数が随分多くなっていると思われるのである。これを一家一作の名請人の制度、すなわち江戸時代の制度になおしていく作業がこれから始まり、後に述べる元和八年(一六二二)の人畜改帳完成の時期ぐらいまでの期間が費やされたのだと考えられる。