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小倉城を築城して居城とする

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検地を終えて三九万九〇〇〇石余の石高を計算した細川忠興は、九万九〇〇〇石余は領主の蔵入地(くらいりち)とし、残りを家来の知行地としたということが、これも「細川藩譜採要」という本に書かれている。蔵入地九万九〇〇〇石余というのは、貢租率の平均が仮に幕府の基準である四公六民であったとすると、藩主の収入は年間四万石であった、ということになる。
 検地の翌年、慶長七年一月、細川忠興は居城を中津から小倉に移すことにし、その工事に着工した。中津は領内の南北のほぼ中央に位置し、領内統治には便利であったが、関門海峡を扼(やく)す要衝の地としての小倉の重要性を認識していたからだと思われる。また、今ひとつの理由としては、中国地方で一二〇万石を領していた毛利氏が、関ケ原の戦で石田方の盟主として戦ったため、家康から周防(すおう)・長門(ながと)三六万石に減封されており、徳川に敵対した毛利氏を抑える(すなわち徳川に忠勤を表す)ために小倉に居城を移したことが考えられる。
 これまでの小倉城を本丸(現在、天守閣のある一画)と北の丸(現在、八坂神社のある一画)とし、新たに松の丸(本丸の南側)を設け、さらに東側紫川までの地を城の中枢部分とした。その北・西・南側を二の丸が取り巻き、二の丸の西・南側を三の丸が囲み、それぞれ濠で区分された。三の丸の外側も濠で囲み、これを外濠(そとぼり)とした。足立山から流れて紫川に流入する寒竹川の香春口付近から北に濠を造り、これを東側の外濠(現在の砂津川)とし、東側の外濠と紫川の間の地を新たに開いて東曲輪(くるわ)とした。北は海に面し、東・南・西は外濠で囲まれ、外濠の長さは八キロメートルにおよぶ大きな城郭が造られた。本丸には五層六階の天守閣を設け、街道の出入口八カ所には堅固な門が築かれ、各門の防衛力を強めるため、門の近くに寺院や広場を配するなど、豪壮で要害堅固な城づくりであった。細川忠興は城の完成をまたず、慶長七年(一六〇二)十一月には中津から小倉に移ってきた。
 城郭内には町割りをして城下町をつくり、諸国の商人を集めて城下町の繁栄策を講じた。武士の城下町集住とともに、城下町は軍事拠点でもあったのである。各大名は武器をはじめとする軍需物資の調達のため、鋳物師(いものし)・鍛冶(かじ)・皮革・大工などの職人を強制集住させ、一部の者に対しては租税免除、屋敷地付与などの特権を与えて保護した。細川忠興もまた、城下町に鋳物師を集住させ、地子(ぢし)(地代)免除の特権を与えて保護した。その他、鍛冶・紺屋などの集住する町もつくられた。鋳物師・鍛冶・皮革・大工・屋根葺(ふ)きなどの職人は、本来は農山村に根ざす自立した職能者であったが、特定地域への集住は自立性を失い、同時に保護は差別につながる要素を持つものでもあった。