これを見ると、領内の住民の職業、職能、あるいは状態がよく分かる。この中で注意すべき点を考えてみると次のようである。
慶長六年(一六〇一)検地のときの村と、この人畜改帳の村は、その村域が同じでないということである。慶長六年の段階の村は、戦国期以来のものであったと思われるが、新たに農村支配をしていく上に便利なように、村の編成替えが行われている。田川郡弓削田村という村名は、人畜改帳では姿を消し、河原弓削田・宮尾弓削田・西弓削田の三カ村に分割されているようである(検地帳の弓削田村の村域が、そのまま三カ村に分割されたものではないと思われるが、村の石高から見て、大略このように言い得る)。そして検地帳による弓削田村の農民は、一一五人であったものが、人畜改帳による河原弓削田・宮尾弓削田・西弓削田の三カ村で六六人になっている。これは、耕作者全員を書き上げた検地帳が貢租負担者である名請人(なうけにん)(本百姓)、すなわち土地保有者による一家一作の体制が完成したことを意味している。
また慶長六年の検地帳には庄屋という名称は出ているが、元和八年(一六二二)の人畜改帳では手永(てなが)、惣庄屋という名称が出てくる。手永とは細川氏がつけた名称で、一五~二〇カ村の範囲の行政区域を呼ぶ名称であり、惣庄屋とは手永の管轄者のことである。惣庄屋は管轄する手永内の庄屋たちを指揮監督して藩の施策を実施したり、各村々から年貢や夫役(ぶやく)を徴集したりする役割を持つものである。このような農村支配の構造が、慶長六年から元和八年の二〇年間に出来上がった。それは、言葉をかえれば、細川氏は二〇年間を費やして江戸時代にふさわしい農村整備の基礎づくりを完成した、ということになる。
この惣庄屋や庄屋は、これまでの土豪や地侍層の人びとが任命された。これらの人びとは従来からの地域の実力者であり、細川氏は農村支配(それは藩体制維持の基本である農民からの年貢と夫役の取り立てを目的とする)の貫徹を図るため、在地の有力者を惣庄屋や庄屋などの村役人に取り立てて、領民支配の末端組織に組みこんだのである。惣庄屋には藩から扶持(ふち)が支給された。藩から扶持が支給されるということは、藩主の家臣同様に遇されるということであり、同時に藩主に対して奉公(忠節)を尽くすという関係に置かれることを意味している。