また、この人畜改帳で注意しなければならないのは、非常にたくさんの名子・荒仕子が書き上げられていることである。百姓の総数の四分の三にものぼっている。名子は地侍・豪農や名主に半隷属的な関係で農業に従事し、労役の提供をさせられており、荒仕子は力仕事の雑役をしながらも、地主から土地を借りて耕作に従っており、共に独立した農家経営者ではない。戦国時代の大名は、直接耕作者を農家経営者として、この農民から大名が直接に年貢を取る方式に切り替えていった。だから多くの名子がこの段階で隷属的な身分関係から解放され、独立した農家経営者―年貢負担の主体―となったのである。大名にとっても、豪農や名主、それにまだ残存していた荘園の領主や役人などによる、直接耕作者からの中間搾取(さくしゅ)の排除が出来た。これは耕作者にとっても、大名にとっても良いことなのである。
ところが細川氏の場合、農村整備の基礎づくりの段階でも、この原則は貫かれることなく、非常に多くの名子が残った。細川氏は人畜改帳を完成するまでの二〇年間に手永制度を確立し、農村支配体制を固めたが、先にも述べたように手永の大庄屋や村々の庄屋は、これまでの土豪や地侍など、その土地で勢力の強い者を任命している。数多くの名子を抱えているのは、主としてこの土豪・地侍層である。細川氏は彼らの持つ名子を温存してやった代わりに、農村支配の第一線である惣庄屋・庄屋に取り立てた。言葉を換えれば、その土地で大きな勢力を持つ者との妥協であったと言うことができる。
しかしこれは小倉藩だけでなく、藩政の当初はどこの藩も同じようなことをしているが、小倉藩の場合、名子の存在は幕末まで残る。そのような妥協の産物としての政治が永続する、ここに小倉藩の特性があると思われる。豪農層の名子労働に対する依存度の高さは、当然ながら農業生産力の発展を遅らせる。それは藩力の弱体化を招くことになるのである。