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人畜改帳の人びと

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人畜改帳には職業や職能、人びとの生活状態を表す区分が詳細にされているが、ここで、いま一つ注意をする必要があるのは、その中には「かわた」をはじめ、後世被差別部落に組み入れられたと考えられる仕事に従事していた者が記されている。ずっと年代が下るが、江戸の穢多頭(えたがしら)弾左衛門が享保四年(一七一九)、幕府に差し出した彼の配下に属する職業に従事していた者と通ずる仕事に携わっている者を人畜改帳から拾うと次のようなものがある。
 
 かわた・はかせ・はちひらき・座頭・めくら・ささらすり・念仏申し・つづら作り・おどり子
 
 弾左衛門が挙げた職業を標準と考えれば、小倉藩の場合でも、これらの職業に携わっていた人びとの全部または一部が、後世・被差別身分に組み入れられたと考えられるのである。中世の社会でも、社会の主たる生産である農業従事からはみだし、雑業に従事せざるを得なかった人びとの社会的地位は低く、蔑視(べっし)の対象層をなしていたと考えられる。細川氏の時代、中世社会で蔑視されるような仕事に従事していた人びとは、やはり蔑視の対象になっていた。戦国時代は身分の流動は激しく、従事していた仕事が世襲的に継承されたわけではない。人びとはある程度、自分の意思で自分の好む仕事を選ぶことができ、身分は階層的ではあったが、流動的なものであった。だから農民や商人が大名になり、豊臣秀吉のように関白までも昇ることが出来たのである。
 しかし、検地と兵農分離は、それを不可能にしてしまった。封建体制とはもともと身分階層によって支配の貫徹を実現しようとするものであるから、身分制が拡延され、それに差別が随伴するのである。ただ、十八世紀以降のように、制度(法)をもって村落共同体から疎外し、差別を固定してしまうというようなことはなかった。
 人畜改帳は領民から夫役を徴集するための台帳であり、したがって人畜改帳に記載されている仕事に従事している者は、社会から疎外されていなかった、と解される。社会から疎外するということは、疎外された人間に対する差別ということになるので、人畜改帳に記載されていることは制度として差別の対象とされていなかった、ということになる。
 領内の住民で人畜改帳から除かれた人びとのあったことも考えられる。細川氏の小倉城在城時代の末期、寛永九年(一六三二)の資料(「御奉行奉書抄出」永青文庫蔵)によると、小倉だけでも一四五人の非人のいたことが明らかであるが、人畜改帳に非人の記載はみられない。中世から近世初頭のころまで、犬神人(いぬじにん)や乞食・物もらいなどだけでなく、一般的に賤業とされている仕事に従事する者を非人と呼んでいる。既に社会的に疎外されていた人びとはいたが、人畜改帳に記載された者の一部が、後世、賤業従事者として被差別部落に組みこまれたとしても、まだこの段階ではそれらの人びとが差別(疎外)される階層をなしていなかったと考えられる。
 それといま一つ、人畜改帳に記載されなかったと思われる者に、河原居住者がある。河原居住者は貢租・夫役の負担から除かれていたので、これも人畜改帳から除かれた。河原居住者に何故なったのかを考えると、次のような場合が考えられる。
 
 (1)動乱や災害などで家や田畠を失ったもの
 (2)戦国動乱で戦いに敗れたもの
 (3)細工者や雑芸能の渡りもの
 (4)皮革関係の作業のため、良質な水を必要とするもの
 (5)その他キリシタン弾圧などで河原住まいをしたもの
 
 南北朝期を過ぎると、河原者についての文献がかなり多くなる。南北朝期の内乱で生活の基盤を失った人びとが住みついたからと思われる。その後の動乱と、特に長期にわたった戦国の動乱の中で右にあげたような人びとが河原に住みつき、わずかな土地を開いて耕作をしたり、農業労働者として雇われたり、いろんな雑業や遊芸に従ったり、とにかくその日の糧(かて)を得るために働いたわけである。河原に住みつくということは、河原者という蔑称をもって蔑視の対象とされた。年貢・夫役の課されない不課の民とは、共同体からの疎外ということになる。それは一つの社会外の社会でもあった。