十八世紀以降、制度をもって被差別部落に組みこまれ、その役目の主要な一つである斃牛馬(へいぎゅうば)の処理と皮革製造の仕事に携わった「かわた」(かわや)が人畜改帳に記載されている。細川領内で二二人を数えることができる。のちの小倉小笠原藩の領域である企救・田川・京都・仲津・築城・上毛の六郡だけを見ると五人の「かわた」がいることが分かる。だいたい一郡に平均一人ということになる。
当時の社会では皮革は重要な軍需品で、武器・武具を作るのに欠かせない品物である。細川氏は小倉沖の藍島(あいのしま)に牛の放牧場を設けて、皮革の確保に努めたくらいである。だから、人畜改帳にみられるように、皮革関係の仕事に携わる者が一郡に一人程度(数人居る場合もあり、まったくいない郡もある)では、円滑な皮革の需給が保たれたとは考え難いことである。したがって人畜改帳の「かわた」とは、地域的な皮革の集荷人として大きな問屋のようなものではなかったのか、あるいは皮革としての製品を作り上げる作業をする人びとの集団の統領のようなものではなかったか、とでも考えなければ理解しにくい。そうであるならば、この「かわた」の下に、実際に皮革をつくる作業に当たる者や、皮革を集荷してまわる人びとがいたのではないかと思われる。
そして皮革の製造作業は、清い、よい水がなければ出来ないので、河原に住んだ者もいることが考えられる。そのため当時の社会では非常に重要な仕事をしていたにもかかわらず、河原に住んだ者は人畜改帳に記載されなかったと考えられる。しかし、これは河原に住んだ者だけのことであって、皮革関係の作業をする者が、すべて河原に住んだわけではない。
小倉時代の細川氏の資料からは明らかになし得ないが、寛永九年(一六三二)肥後国に転封になった後の資料によれば「かわた」は皮革関係の仕事だけでなく、農業を兼業にしている。小倉藩時代の細川氏の政治は、肥後藩時代と基本的には同じと考えられるので、小倉藩の皮革製造関係の作業に当たっていた者も、当初から農業とかかわりをもっていたと考えられる。また隣の福岡藩の場合、「かわた」は農業にも従事している。
人畜改帳の中に記載されている百姓や、膨大な数の名子・荒仕子の大部分は農業に従事しており、皮革関係の作業をしていても、農業に従事しているということにおいて、百姓や名子・荒仕子の中に記載されたのではなかろうか。
このようなことから、人畜改帳の「かわた」(かわや)とは、皮革関係の作業をする統領的なもの、あるいは皮革を集荷する問屋的なものではなかったかと思われるのである。
これらのことは、いずれも仮説の域を出ないが、はっきり言えることは、農業に従事していようといまいと、百姓はもちろんであるが、名子・荒仕子といえども、人畜改帳に記載されているということにおいて、それは村落共同体から疎外されていなかったということである。このことは人畜改帳の三〇余種の職能区分のうちのあるものは、先にも述べたように、のちに被差別身分に組み入れられたと思われる。しかしこの段階では社会からの疎外――社会外の社会のものとして――はなされていなかったことがはっきりしている。制度的にはすべて同列であったと考えられる。もちろん、藩政時代というのは身分制の社会なので、身分――武士と庶民――による差別はあるが、後に述べる元禄―享保期(一六八八―一七三六)以降のような、ある特定の人びとを社会生活から疎外し、制度をもってそのような差別をつくりだす、ということはなかった。
人畜改帳に小倉城下町に住んだ者の記載はないが、皮革を取り扱う者は小倉城下町に住んでいることが寛永四年(一六二七)の「細川藩日帳」から分かる。城下の東町(細川忠興が小倉城築城のとき新たに開いた紫川から東の郭(くるわ)内)に住む四郎兵衛という「かわた」が盗難にあい、奉行に訴え出た記事がある。このことから、当時は皮革関係者が混住しており、後世のように被差別部落に集住させられて差別を受けるようなこともなかったことが分かる。