小笠原は清和源氏、源義家の弟源義光の系譜をひいている。そして鎌倉・室町将軍家の礼法師範として、両家の側近の位置にあった。義光の曾孫遠光は、出生地が甲斐国巨摩(こま)郡加賀美であったところから加賀美氏を称した。また、遠光は平家追討の行賞として信濃守に任ぜられた。こうして、信濃国を代々本拠地にしていったのである。遠光の二男長清は同郡小笠原で出生したところから小笠原姓を名乗るようになった。しかし、天文二十二年(一五五三)に武田信玄に敗れ、その後家督を継いだ貞慶は天正十年(一五八二)三河の徳川家康に従って旧地深志城を旧臣とともに奪回した。その後、一時秀吉のもとに入ったが、徳川氏と和睦した秀吉の仲介によって貞慶の嫡子秀政と家康の長子岡崎信康の息女との婚儀が調い、ふたたび徳川家との関係を調くした。
天正十八年(一五九〇)の小田原征伐に貞慶と秀政は出陣した。家康の関東転封とともに秀政は下総国栗橋で三万石の大名となり、旧信濃の地は秀吉が旗下の石川家昌に与えた。文禄元年(一五九二)朝鮮出兵の際、肥前名護屋に赴き、家康の補佐を果たした。
慶長五年(一六〇〇)、関ケ原の戦の功績によって、翌年信州伊那郡飯田城に移り、領地は五万石となった。慶長十八年(一六一三)には石川玄蕃頭三長の改易によって、家康より秀政は信州松本へ所替え、八万石の大名に成長した。そして、「御家中知行割被成候て銘々相渡(家中物成免五ツなり)」(小笠原文庫「御當家續史」、以下「續史」と略す)と、家臣団の知行割りを実施している。こうした経緯で、「徳川譜代大名小笠原氏の確立」(『北九州市史』近世編、第一編第二章第七節一四二ページ)がなされたのである。