慶長八年(一六〇三)征夷大将軍に任命された家康は、二年後には将軍職を秀忠に譲り、駿府に隠居した。こうして、将軍職の世襲性を諸大名に示すことで徳川氏による支配体制が次第に確立しつつあったとき、大坂冬の陣が起こった。慶長十九年(一六一四)のことである。家康・秀忠の命令によって、秀政は中山道の押さえとして松本に在城、嫡子忠脩(なが)が大坂に出陣した。ついで、翌元和元年(一六一五)、夏の陣が起こると、再び小笠原氏にも出陣命令が下った。この時は、秀政に出陣命令が下って出陣したが、嫡子の忠脩には命令は下っていなかった。しかし、忠脩は独断で出陣し、二男の忠政(正保元年=一六四四=に忠真と改名、以下忠真を用いて記述する)も出陣した。この出陣に関して、二代将軍秀忠より命令違反のお叱りを受けたが、家康のとりなしを得て咎(とが)めをまぬかれた。
大坂の陣によって豊臣氏は滅亡した。この合戦で、秀政・忠脩は戦死した。このため、同年忠真は、伏見城で将軍秀忠から父の遺領八万石の相続を許され、松本に帰城した。翌元和三年(一六一七)、小笠原忠真は信州松本の城主から播磨国明石に転封を命じられ、二万石の加増の一〇万石を拝領した。隣藩の姫路城には本多忠政も入城してきた。この本多氏と忠真は親戚関係にあった。将軍の命令によって、戦死した兄忠脩の正室であった本多氏の娘を迎えていたからである。また、叔父・甥の関係でもあった。この時、忠脩の嫡子長次も龍野六万石の城主に取り立てられた。
徳川政権の九州・西国支配については元和二年(一六一六)、子飼いの譜代大名である石川忠総が、美濃大垣から豊後日田六万石に取り立てられていて、九州最初の譜代幕領が出現していた。同五年には水野勝成が備後福山に配置されて、中国地方最初の譜代大名となった。また元和九年(一六二三)には、家康の孫の松平忠直(越前北庄藩主)を豊後萩原に配流して、江戸より国目付を派遣している。
こうした背景の上で、寛永九年(一六三二)の譜代大名の九州配置が行われた。