豊前小倉城に小笠原忠真(一五万石)、豊前中津城に小笠原長次(忠真の兄忠脩の子:八万石)、豊前竜王城に松平重直(忠真の弟、能見松平家に養子:三万七〇〇〇石)、豊後木付城に小笠原忠知(忠真の弟:四万石)など、小笠原一族が、それも忠真の兄弟・甥で固めた配置である(第7図参照)。
第7図 寛文4年 大名配置図
同年八月、三代将軍家光は、小笠原長次・忠知、松平重直らを豊前・豊後両国に配置して「右近大夫(忠政公之御義)旗下ニ被仰付候との被仰渡御座候よし」(川本氏収集文書「天正、享保 小歴代畧記」)と申し渡した。また、「上意に豊前は九州の要たる処に依て御押への御為被仰付候間何事ニ而も替候義有之ハ早々上聞に達すべし」と命じられた(「續史」)。さらに、「且又、豊前国者、依為九州要害之地、令鎮護之条、不依何事相替儀有之者早速可致言上」(『福岡県史』第三巻下冊二九ページ)と「鎮護」の任にあたるように命じられてもいた。また、この小笠原氏の九州入部は、「豊前国ハ、九州の要の国成ニ依て、右近様を被置候、何事ニても替事有時ハ、早々上聞にたすへきとの上意也、是右近様御きぼなり、去に依て九州大名衆ハ、右近様ハ九州御目付と何も思召なり、是御きぼなり」(「小笠原家正伝記」北九州市立中央図書館蔵)という、幕府の認識によるものであった」(『豊前市史』上巻五八三ページ)。
小笠原小倉藩の領域は規矩・田川・京都・仲津・築城郡と上毛郡の一部であった。
高弐万七千七百八拾三石四斗 | 規矩郡 | |
高三万六千三拾三石壱斗 | 田河郡 | |
高弐万弐千弐百弐拾弐石七斗 | 京都郡 | |
高弐万七千六百四拾弐石三斗 | 仲津郡 | |
高壱万五千五百五拾六石七斗 | 築城郡 | |
高弐万七百六拾壱石六斗 | 上毛郡 | |
都合拾五万石 | ||
畢宛(ママ)行之訖、令(ママ)可領知之状如件 | ||
寛永十一年八月四日 御判 | ||
小笠原右近大夫との | ||
(『福岡県史』第三巻下冊三〇ページ) |
時代は下るが、第8図のように吉宗の朱印状がある(小笠原文庫「領地目録」『豊津藩歴史と風土』第一輯所収)。
第8図 享保2年(1717)の知行宛行状
―徳川吉宗の朱印状―
(『豊津藩歴史と風土』第1輯)
(図)
寛永十年(一六三三)、忠真は「忠政公(忠真)、総家中知行割被成候」(「續史」)と家臣の知行割りを実施した。
家老―五割増の加増
(一般家臣)四百石以上―百石ずつの加増
百石以上―五〇石ずつの加増
切米の者(足軽・中間・船手の者)―三割ずつ加増
ただし、「知行米皆々御蔵米」に決定するとした。この点に関して、のち延宝六年(一六七八)に地方(じかた)知行を廃止して蔵入地化(後述)した時点の記事に「信州にても播州にても御家中知行皆々地方に御座候、忠真公明石より小倉へ御打入之節、様子御座候而御蔵米」(「續史」)にしたとあって、理由については、ただ「様子御座候」とあるのみで詳細はわかっていない。
ところが、寛永二十一年(一六四四=正保元年)の「御勘定所古帳抜書」(『福岡県史史料』近世史料編 御當家末書(下)、以下『御當家末書(下)』と略す)から作成した第10表を参照してもわかるように、家臣たちの知行高は表高一五万石に対して九〇・五パーセントになる。元和八年細川氏時代の「小倉藩人畜改帳」から推測すると、内実高は二〇万石余に達しているので、この内高に対しては六七・九パーセントということになる(『北九州市史』近世編一五二ページ)。
第10表 小倉藩士の知行高 |
項 目 | 石 高 数 | 備 考 |
御家中総知行高(小笠原杢助ゟ徳力仁兵衛迄) | 88630.0000 | |
惣庄屋伊川五右衛門ゟ津田五郎兵衛迄 | 1236.5700 | 史料の数字のママ |
兵部太輔(長子)・大和守(次男)・娘 | 27400.0000 | |
福仙山院ゟ開善寺迄 | 2378.7300 | |
小 計 | 119635.3000 | |
扶持数3073人 | 5532.3000 | |
切米人数1410人 | 10641.7000 | |
小 計 | 16174.0000 | |
総 計 | 135809.3000 |
(『福岡県史資料』近世史料編 御當家末書(下)) |
なお、前掲『御當家末書(下)』によれば、同年「当時、諸大名方奥様皆以御定府被仰付候御事也」と、人質として正室の江戸屋敷居住の命令が出されている。