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島原の乱と小倉藩

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寛永の飢饉といわれるものがある。詳細は不明ながら、いちおう、寛永十年代から断続的に続いたこと、一定地域にとどまらず全国的に襲来した飢饉で、のちの享保の飢饉を初めとする江戸時代三大飢饉に匹敵したと考えられている。特に、寛永十六―十八年(一六三九―四一)の惨状は「一両年五穀みのらず」(『徳川実記』第三編一四五ページ)、「是歳飢、諸国牛馬多死」(『日本災異誌』)などと「江戸時代の飢饉」(雄山閣『歴史公論ブックス12』七五ページ)に紹介されている。しかも、幕藩体制社会の成立期から確立期に起きたため、幕府や諸大名はこの飢饉を契機として農村保護政策を基本とした規制法を制定することになった。
 このような時に、島原の乱が起きたのである。寛永十四年(一六三七)、島原の乱が起こると、将軍家光は、急遽(きゅうきょ)、庶弟の保科正之に山形への帰国を命じ、東北の動揺に備えさせた。島原の乱は肥後国島原と唐津藩の飛び地天草で起こった一揆である。土豪主導型の百姓一揆の性格が強いが、幕府のキリシタン禁圧政策への反発が大きく、また、領主の年貢その他の収奪の苛政への抵抗など、一揆勢の反抗事情は複雑なものであった。
 十月ごろ、島原半島の南目の農民たちが村々で蜂起し、代官を殺し、神社・仏閣を焼き払って反乱状態となり、鎮圧にきた島原藩主松倉勝家の軍を撃退したことから始まった。これに呼応して天草地方でも一揆が起こり、十一月には島原半島に渡り、島原半島の一揆と合流した。その総勢は「総人数三万七〇〇〇人(内究竟(ママ)強(窮)民弐万余老弱女童壱万六〇〇〇余)」(「續史」)に達していたという。総大将は天草四郎時貞で、旧有馬氏の居城原ノ城を修復して籠城した。このため幕府は「籠城の作法能いたし威勢を振ひ候に付て中々御領主の御自力にて御退治難成九州一同の騒動に成り候故 公義にも無心元(こころもとなく)」(「續史」)と忠真に帰国を命じ、上使として板倉重昌を派遣した。しかし、翌十五年正月元旦に板倉重昌は討ち死にした。その直後、同四日、上使の老中松平信綱が有馬浦に到着した。かつ、既に在江戸の九州の諸大名に、帰国の上参陣の命令が下っていて、鍋島勝茂・有馬豊氏・立花宗茂・細川忠利ら一二万五〇〇〇余の軍勢が一月半ばに集結した。
 忠真と水野日向守勝成は、「両人の兵衆各後備に召置、其身は伊豆守(信綱)・左門(戸田氏鉄)とおなじく相談仕可致」(「續史」)との処遇であった。忠真の陣容は小笠原因幡忠慶・大羽内蔵助政名・二木正右衛門政定・宮本伊織貞次・阪(坂)牧兵右衛門忠利・下条甚五左衛門氏定・犬甘外記知信・原左門昌行の八人を侍大将として、総勢八一三三人であった。侍大将らは一月二十八、二十九日に「御先備」として出陣、遅れて翌月二日忠真が出陣した。
 この時、士分扱いの城野手永大庄屋中村某が「小荷駄係」として参陣したため、その子息が留守中の手永の年貢収納業務を的確に処理したとして切米八石が与えられ、これ以後各手永に「子供役」が設けられたという(『小倉藩政時状記』『福岡縣史資料』第五輯、この史料を「藩政時状記」と略し、また『福岡縣史資料』は『県資』と略す)。また、時代は下るが「文久二年戌秋冬六郡より書上并天保三年辰七月企救郡より書上写」(友石家保管文書)によると、このとき参加した大庄屋層が一一人いた。宮本伊織(家老職)の備と坂牧兵右衛門の備に七~一四人程度の従者を連れて加わっていた(第11表)
 
第11表 天草・島原の乱への小倉藩大庄屋の動員
(友石文書「文久二年戌秋冬六郡ゟ書上并天保三年辰七月企救郡ゟ書上写」
豊津町史資料編『豊津藩歴史と風土』第4輯8ページ)
手永島原出陣者役 儀供 連乗 馬小荷駄御 備
企救城野城野四郎兵衛大庄屋711宮本伊織
今村篠崎源三郎
城野徳力権太郎
津田橋津万吉御頼大庄屋宮本伊織
田川猪膝猪膝小左衛門大庄屋1412坂牧兵右衛門
上野上野長兵衛1412
金田金田傳蔵1412
猪膝安宅九兵衛1412
京都黒田黒田治右衛門
仲津元永元永三太夫10
節丸伊良原六之丞帰国後子供役
上毛友枝友枝太兵衛大庄屋711坂牧兵右衛門

 
 包囲軍は二月二十八日を総攻撃の日と定めていたが、戦いは前日から始まった。小倉藩は前述のように「後備」の命令を受けていたが、唐津藩兵を押しのけて二ノ丸から本丸へ攻め入った。そして翌二十八日、福岡藩兵が本丸を一番に攻撃した。諸藩もこれに続いた。こうして原ノ城は陥落した。
 先手の諸大名はその功績を伊豆守・左門に報告したが「後備」を命じられた小笠原一族勢や水野日向守たちの家臣の功績は報告されず、「御内祝いにて皆々御披見」(「續史」)し合ったという。しかし、小倉藩の被害者も少なくはなかった。討ち死にした者は、野島八郎右衛門重基(三百石馬廻)・浦野六郎左衛門盛正・島武右衛門正文(歩行之者)・松下権左衛門為良(山田又左衛門方の牢人)ら七人、負傷者として鷲尾九右衛門・小笠原太郎兵衛ほか全一九人があげられている(「續史」)。
 忠真は三月朔日に有馬の陣地から小倉に向けて出発した。同月、島原の乱の首謀者(大矢野四郎つまり天草四郎時貞、有江監物など)たちの首が小倉に送られ、獄門にかけられた(「續史」)。
 四月には、松平伊豆守信綱・戸田左門が島原より小倉に至り、また上使として太田備中守資宗が江戸より小倉に到着し、出陣の諸大名を小倉に集め、四月五日開善寺で上意を伝えた。島原藩主松倉長門守勝家は領知没収、唐津藩主寺沢堅高は天草領四万石を没収された。上使太田氏は同日江戸へ出発、諸大名も帰国した。こうして、島原の乱の処理は終り、以後キリシタンの取り締まりを中心とする宗教政策が強化された。小倉藩は、「上使并諸大名方小倉逗留内、忠政公(忠真)御物入ハ莫大の御事也」(「續史」)と接待関係費用の負担を強いられた模様である。
 最後に、島原の乱の歴史的意義については、「島原の乱によって幕藩体制そのものは微動だにしていない。逆に幕府は島原の乱を口実にして、その後の政策決定・思想統制に利用している。幕府為政者は島原の乱が封建支配に対する反抗であることを感じていただろうが、キリシタン暴動であることを表面に出すことによって問題をすりかえた傾向がある。」(山川出版社『風土と歴史11 九州の風土と歴史』二一六ページ)との見解は、この時期の災害・飢饉の状況や保科正之の帰国などを考え合わせると妥当であろう。