寛文七年(一六六七)、忠雄が新藩主に襲封〈 ~享保十年(一七二五)年〉した。二代藩主である・寛文・延宝期(一六六一―七三・一六七三―八一)は一般的に幕藩体制確立期と位置づけられている。この時期、小倉藩も諸制度の整備がなされた。
二代藩主忠雄の時代に次のような家臣団に関する制度改革が行われた。
① 初代藩主忠真の時代に、城および藩主の警備を任務とした家臣団を「上ノ段詰」と呼んでいた者を「小姓組」・「書院番」に分けた(寛文八年=一六六八)。同時に「寄合」の格式を設けた。また、駕籠番の役職を設けて、手まわりの者・道具持・草履取・挟箱(はさみばこ)持・駕の者を支配させた。さらに、家老の次席で「馬廻の士」を支配していた番頭を廃止し、「中老」という格式を設けた。その下には外様番頭を新設して、有事に対応する臨戦体制の家臣団の編成替えを図った。 |
② | 延宝二年(一六七四) | 「中目付」役を設けた。 |
③ | 延宝六年(一六七八) | 勝手方引請家老を「当職」と呼ばせることにした。 |
④ | 貞享五年(一六八八) | 知行一〇〇〇石以上の者は一割の差上米を納めることを制度化した。 |
⑤ | 元禄四年(一六九一) | 小姓通番世話役を設けた。 |
⑥ | 宝永二年(一七〇五) | 小姓組番目付役・書院番目付役を設けた。 |
⑦ | 正徳六年(一七一六) | 近習番頭・歩行頭に月番をたてた。 |
⑧ | 享保五年(一七二〇) | 中老御番の制度を設置。中老の格式をもつ者が月番で二、三人ずつ毎日登城して政務を助けることになった。 |
| | (以上、『北九州市史』近世編 二五九~二六一ページを参照) |