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家臣団の構成

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幕末期のことであるが、「小笠原家は重臣拾四家」(「藩政時状記」『県資』第五輯五六四ページ)として小笠原織衛、小笠原若狭、小笠原甲斐、小笠原内匠、原主殿、渋田見舎人、中野一學、島村志津摩、宮本伊織、鹿島刑部、小宮民部、二木求馬、福原多聞、大羽蔵之助の諸氏があげられている。これを「大夫」と唱え、この中より家老が選ばれた。家老は国家老五人、江戸家老二人を定員とし、そして「他藩の如く城代家老執権職と定まりたる家柄に於いて、代々之を世襲する事無く、古参の家老を執権職」とした。職制は第12表のようになっていた。
第12表 小笠原小倉藩の職制
(『豊津藩歴史と風土』第2輯21ページ)
(安永10年=1781)
役 職 名人数知行高(石)
(国)家老61000~2100
江戸家老1 900
御屋敷家老2 300~550
家老格1 620
中老10 770~2000
中老格1 700
定府留主居2 250~500
江戸留主居1 300
京御留主居1 300
大坂御留主居1 150
御用人4 250~450
若殿様付御用人1 650
若殿様付1 106
御奥様付1 280
番頭11 250~1000
近習番頭1 250
物頭8 200~400
御先手物頭1 450
近習物頭3 200~300
大筒物頭1 300
物頭格17 150~800
御小性物頭格2 550~600
御馬廻り224 100~550
定府馬廻り2 250~300
籏奉行4 400~700
籏奉行中原在番1 200
定府御取次2 300~350
御舩奉行1 370
郡代1 350
御小姓1 200~350
御小姓組213石5人扶持~100
鑓奉行4 240~350
御廣間1 300
大目附4 150~300
町奉行2 300
御勘定奉行3 150~300
定府8 100~250
御膳1 200
筋奉行4 100~166
御殺生方1 150
若殿様御用達1 150
御賄2 100~150
宗門奉行1 100
大里在番1 100

 また、小倉藩の家臣団の構成は第13表のような家臣団の格式・扱い(序列)となっていた。
第13表 小笠原藩の家臣団の構成
(『豊津藩歴史と風土』第2輯19~20ページ)
家格、仕官の時期備   考役   職人数
御名字之族「小笠原」の姓名を名乗る一門家老、中老、番頭9
御名字分流小笠原氏の分流中老、番頭、物頭、物頭格、旗奉行、御廣間、馬廻り15
信濃御代々番位信濃国筑摩郡深志時代
(天正10年=1582)以来の代々家臣
家老、家老格、江戸家老、中老、中老格、物頭、物頭格、御小姓物頭格、番頭、馬廻り、御舩奉行、郡代、定府御取次、近習物頭、御用人、御側役、大坂御留主居、大目附、定府72
下総国古河下総国古河3万石時代
(天正18年=1590)以来の代々家臣
中老、番頭、大目附、馬廻り、物頭格6
再信州飯田・松本信濃国伊那郡飯田5万石時代(慶長
5年=1600)以来および旧領筑摩郡
松本(深志を改称)8万石時代(慶長
18年=1613)以来の代々家臣
家老、御用人、御小姓物頭格、御屋敷家老、定府留主居、馬廻り、御小姓、町奉行、御奥様付、鑓奉行、御殺生方、御側役、若殿様御用達、御詰、筋奉行80
播外明石播磨国明石10万石時代
(元和3年=1617)以来の代々家臣
家老、馬廻り、籏奉行、鑓奉行、町奉行、江戸御留主居、御勘定奉行、物頭格、京御留主居、大目附、中原在番76
豊前小倉豊前国小倉15万石時代
(寛永9年=1632)以来の代々家臣
中老、番頭、物頭、物頭格、馬廻り、近習物頭、近習物頭格、大筒物頭、御家屋家老、近習番頭、大目附、番頭、御小姓、宗門奉行、定府、馬廻り、定府116
信州御取立之家筋信濃国深志で取立の家筋馬廻り2
再信州飯田・松本
御取立之家筋
信濃国飯田・松本で取立の家筋物頭格、馬廻り6
播州明石御取立之家筋播磨国明石で取立の家筋中老、物頭格、馬廻り、勘定奉行、定府7
豊前小倉御取立之家筋豊前国小倉で取立の家筋中老、筋奉行、御賄、馬廻り、若殿様付、大里在番20

 小倉小笠原氏の家臣団のうち、天正十―十七年(一五八二―八九)に、信濃深志時代に抱えられた家臣は、渋田見氏をはじめとする三九家七二人、天正十八―慶長四年(一五九〇―九九)の下総古河時代の家臣は、大羽氏をはじめとする四家六人、慶長五―元和二年(一六〇〇―一六)の信濃飯田―松本時代には、長坂氏をはじめ四八家八〇人、元和三―寛永九年(一六一七―三二)の播磨明石時代には宮本氏をはじめとする五四家七六人、寛永九年以降豊前小倉時代では島村氏をはじめとする七六家一一六人である。当然とはいえ、増封する度に家臣団は増加している。
 この史料は十八世紀のものであるが、寛永二十一年(一六四四=正保元年)には、「忠真公御代御儀定御立之節、左之通被仰付候、西部十郎右衛門(中略)已上三十七騎御暇被下候」など知行・切米取・扶持米取の者を免官したり、縮小したりして家臣団の整理を行っていたのである(『御當家末書(下)』二二~二五ページ)。