第12表 小笠原小倉藩の職制 |
(『豊津藩歴史と風土』第2輯21ページ) (安永10年=1781) |
役 職 名 | 人数 | 知行高(石) |
(国)家老 | 6 | 1000~2100 |
江戸家老 | 1 | 900 |
御屋敷家老 | 2 | 300~550 |
家老格 | 1 | 620 |
中老 | 10 | 770~2000 |
中老格 | 1 | 700 |
定府留主居 | 2 | 250~500 |
江戸留主居 | 1 | 300 |
京御留主居 | 1 | 300 |
大坂御留主居 | 1 | 150 |
御用人 | 4 | 250~450 |
若殿様付御用人 | 1 | 650 |
若殿様付 | 1 | 106 |
御奥様付 | 1 | 280 |
番頭 | 11 | 250~1000 |
近習番頭 | 1 | 250 |
物頭 | 8 | 200~400 |
御先手物頭 | 1 | 450 |
近習物頭 | 3 | 200~300 |
大筒物頭 | 1 | 300 |
物頭格 | 17 | 150~800 |
御小性物頭格 | 2 | 550~600 |
御馬廻り | 224 | 100~550 |
定府馬廻り | 2 | 250~300 |
籏奉行 | 4 | 400~700 |
籏奉行中原在番 | 1 | 200 |
定府御取次 | 2 | 300~350 |
御舩奉行 | 1 | 370 |
郡代 | 1 | 350 |
御小姓 | 1 | 200~350 |
御小姓組 | 2 | 13石5人扶持~100 |
鑓奉行 | 4 | 240~350 |
御廣間 | 1 | 300 |
大目附 | 4 | 150~300 |
町奉行 | 2 | 300 |
御勘定奉行 | 3 | 150~300 |
定府 | 8 | 100~250 |
御膳 | 1 | 200 |
筋奉行 | 4 | 100~166 |
御殺生方 | 1 | 150 |
若殿様御用達 | 1 | 150 |
御賄 | 2 | 100~150 |
宗門奉行 | 1 | 100 |
大里在番 | 1 | 100 |
また、小倉藩の家臣団の構成は第13表のような家臣団の格式・扱い(序列)となっていた。
第13表 小笠原藩の家臣団の構成 |
(『豊津藩歴史と風土』第2輯19~20ページ) |
家格、仕官の時期 | 備 考 | 役 職 | 人数 |
御名字之族 | 「小笠原」の姓名を名乗る一門 | 家老、中老、番頭 | 9 |
御名字分流 | 小笠原氏の分流 | 中老、番頭、物頭、物頭格、旗奉行、御廣間、馬廻り | 15 |
信濃御代々番位 | 信濃国筑摩郡深志時代 (天正10年=1582)以来の代々家臣 | 家老、家老格、江戸家老、中老、中老格、物頭、物頭格、御小姓物頭格、番頭、馬廻り、御舩奉行、郡代、定府御取次、近習物頭、御用人、御側役、大坂御留主居、大目附、定府 | 72 |
下総国古河 | 下総国古河3万石時代 (天正18年=1590)以来の代々家臣 | 中老、番頭、大目附、馬廻り、物頭格 | 6 |
再信州飯田・松本 | 信濃国伊那郡飯田5万石時代(慶長 5年=1600)以来および旧領筑摩郡 松本(深志を改称)8万石時代(慶長 18年=1613)以来の代々家臣 | 家老、御用人、御小姓物頭格、御屋敷家老、定府留主居、馬廻り、御小姓、町奉行、御奥様付、鑓奉行、御殺生方、御側役、若殿様御用達、御詰、筋奉行 | 80 |
播外明石 | 播磨国明石10万石時代 (元和3年=1617)以来の代々家臣 | 家老、馬廻り、籏奉行、鑓奉行、町奉行、江戸御留主居、御勘定奉行、物頭格、京御留主居、大目附、中原在番 | 76 |
豊前小倉 | 豊前国小倉15万石時代 (寛永9年=1632)以来の代々家臣 | 中老、番頭、物頭、物頭格、馬廻り、近習物頭、近習物頭格、大筒物頭、御家屋家老、近習番頭、大目附、番頭、御小姓、宗門奉行、定府、馬廻り、定府 | 116 |
信州御取立之家筋 | 信濃国深志で取立の家筋 | 馬廻り | 2 |
再信州飯田・松本 御取立之家筋 | 信濃国飯田・松本で取立の家筋 | 物頭格、馬廻り | 6 |
播州明石御取立之家筋 | 播磨国明石で取立の家筋 | 中老、物頭格、馬廻り、勘定奉行、定府 | 7 |
豊前小倉御取立之家筋 | 豊前国小倉で取立の家筋 | 中老、筋奉行、御賄、馬廻り、若殿様付、大里在番 | 20 |
小倉小笠原氏の家臣団のうち、天正十―十七年(一五八二―八九)に、信濃深志時代に抱えられた家臣は、渋田見氏をはじめとする三九家七二人、天正十八―慶長四年(一五九〇―九九)の下総古河時代の家臣は、大羽氏をはじめとする四家六人、慶長五―元和二年(一六〇〇―一六)の信濃飯田―松本時代には、長坂氏をはじめ四八家八〇人、元和三―寛永九年(一六一七―三二)の播磨明石時代には宮本氏をはじめとする五四家七六人、寛永九年以降豊前小倉時代では島村氏をはじめとする七六家一一六人である。当然とはいえ、増封する度に家臣団は増加している。
この史料は十八世紀のものであるが、寛永二十一年(一六四四=正保元年)には、「忠真公御代御儀定御立之節、左之通被仰付候、西部十郎右衛門(中略)已上三十七騎御暇被下候」など知行・切米取・扶持米取の者を免官したり、縮小したりして家臣団の整理を行っていたのである(『御當家末書(下)』二二~二五ページ)。