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地方支配組織の確立

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小倉藩の郡政機構はだいたい次のようになっていた。郡代を最高責任者として各郡に筋奉行(郡奉行)・代官・山奉行を配置した。この筋奉行以下を郡方三役という。企救郡以下六郡の下には手永と呼ばれる数十カ村を束(たば)ねる行政区画があった。その統括者を大庄屋といい、その補佐役を子供役という。大庄屋・子供役・手代を手永三役といった。藩の方からは手代が派遣された。各村には、庄屋と補佐役の方頭および組頭(村方三役)が村政を担当した(第9図参照)。
 

第9図 郡方の支配機構図
(「藩政時状記」『県資』第5輯690~693ページ)

 郡代の役所は城下の篠崎にあって「内役所」とよばれた(「藩政時状記」『県資』第五輯六八四ページ)。以下、同書によって述べる。
 このうち役所には十数人の書役が置かれ、役所内に行政課・租税課・作事課・樋井課ともいうべき組織をもっていた。郡代は行政・庶務・租税を直轄した。
 同書に紹介されている郡方役人を図示すると、第9図のようになる。
 
 (一)手永三役
 手永制度については、多くの論考があるが、細川氏~小笠原氏時代の小倉藩領での大庄屋の性格づけについて、『北九州市史』(近世編一七六~一七八ページ)で簡潔に解説されている。
 細川氏時代には、手永の統轄者は「惣庄屋」と呼ばれ、三〇~二〇石の「知行」が与えられている。しかし、「この『知行』は、個人というよりも、惣庄屋という役職につけられた『役料』と見るのが妥当であろう。」(『同書』)と、惣庄屋は知行取であるという短絡的な解釈に疑問を投げかけている。また、「惣庄屋は、当初、庄屋の『総代』であった者が、次第に庄屋より上位の職掌となり、少なくとも元和八年(一六二二)までには、惣庄屋は完全に独立した役職として固定し、庄屋との間に一線が画されたものと思われる。そして寛永二年(一六二五)には、小倉城下で惣庄屋に一間ずつの『御屋敷』が与えられること」(『同書』)になり、小笠原氏時代になると手永も固定し、大庄屋と呼ばれるようになるのである。
 子供役は、大庄屋の補佐役であり、先述(前項、割見出し「島原の乱と小倉藩」)したように島原の乱以降設けられたものである。切米八石が与えられ、各手永に一人配置されることになった。
 手代は、「筋奉行の指揮又は大庄屋の請求により、時々大庄屋の役所に出張し、事務に参与、或は手永内各村を巡回」(「藩政時状記」『県資』第五輯六九二ページ)する役割をもち、身分は下級武士であり、藩側の農政の最前線で活躍した者であった。
 
 (二)村方三役
 庄屋・方頭・組頭の三役よりなる。町村の大小にかかわらず一人の庄屋、方頭は二五戸ごとに一人(小さい村でも)、組頭は五戸に一人(いわゆる五人組)で構成されている。村役の任免は、庄屋は筋奉行、方頭は大庄屋、組頭は庄屋がすることになっていた。最後に、手永の大庄屋名と村数を表に示しておく(第14表参照)。
第14表 小倉藩・新田藩の村役人と村数
(『豊津藩歴史と風土』第2輯18ページ)
大 庄 屋子 供 役村数備   考
















今村忠右衛門今村八左衛門14
片野定兵衛片野九左衛門16
城野四郎右衛門城野治右衛門18片野新町・北方新町を含む
小森四郎七小森兵作23
冨野伴兵衛津田直吉12
冨野伴兵衛冨野九郎右衛門25長濱浦・大里町を含む


加治四郎兵衛上野壮右衛門10
加治四郎兵衛13猪膝町を含む
添田藤左衛門16添田町を含む
中村八郎右衛門13
糒直右衛門糒祥作12香春町を含む


延永甚左衛門延永民助18
新津甚左衛門新津与三右衛門19松山分・濱町・二崎分を含む
黒田常兵衛黒田源左衛門16
久保小右衛門久保健吉19新町を含む


長井幸右衛門長井直七16
節丸幸左衛門15
元永忠左衛門17大嶋・小嶋を含む
平嶋甚左衛門14
国作傳蔵国作与左衛門15


安武治左衛門安武定四郎12
八田文内八田弥平次9
椎田宗左衛門椎田治郎七9湊を含む
角田藤内角田喜久左衛門14


友枝快蔵友枝与三兵衛14
三毛門幸右衛門三毛門兵蔵20小祝浦を含む

岸井武左衛門14
久路土恒蔵15