ビューア該当ページ

土地制度

816 ~ 818 / 1391ページ
小倉藩では、慶長六年(一六〇一)に細川氏が領内検地を行い、寛永三年(一六二六)にも田川郡を除く五郡には検地帳を改訂した。後から入封した小笠原氏は、この検地帳を土地制度・農村支配の基本とした。そして、万治年間(一六五八―六一)・寛文年間(一六六一―七三)・延宝年間(一六七三―八一)にはいわゆる。〝新田開発〟に力を注ぎ、宝永三年(一七〇六)には企救・京都・仲津・築城・上毛の五郡に、田川郡では寛保二年(一七四二)に「水帳」を作成した。これ以後、小倉藩の土地台帳として最も大切な基本帳簿となる。
 「水帳」については、「各水掛毎ニ第一番ヨリ……幾百番ニ至ル番号ヲ付シ、(中略)地位反別ヲ記シ(例ヘハ上々田何反何畝、下畑何畝何歩半ト)肩ニ字ヲ、腹書ニマチ数及ヒアセ数ヲ、反別ノ下ニ、地主ノ名、其肩ニ検地帳ノ名ヲ某分ト書セリ」(「豊前旧租要略」『県資』第八輯五九二~五九三ページ、「豊前旧租要略」を「旧租要略」と略す)と説明されていることから、検地帳をもとに、再編成されたものとみて差し支えない。
 小倉藩の「新田畠」は細川氏から受け継いだ実高から表高(朱印高)一五万石を差し引いたものを指しているので、一般にいわれている。〝新田開発〟はそれ以降の開墾に基づく新田畠をいう。安政元年(一八五四)の調べでは合計で二万五五七九石余であった(「旧租要略」『県資』第八輯六一一ページ)。その内訳は次のようになっている。
 ①寛永九年(一六三二)―寛文四年(一六六四)= 三二年間→ 二万一三四三石余(八三・四パーセント)
 ②寛文四年―貞享元年(一六八四)= 二〇年間→  三一三一石余
 ③貞享元年―安政元年(一八五四)=一七〇年間→  一一〇四石余


 このように、小笠原氏の〝新田開発〟は①寛永九年の入国後の三二年間で、この〝新田開発〟の全体の八三パーセント近くにおよんでいる。こうして、表高+「新田畠」+〝新田開発〟の積算は一五万石+四万八八七〇石余+二万五五七九石余=二二万四四四九石余になるから、内高の一一パーセントの改め高を出したことになり、この時期の開発の多さを表している。
 延宝六年(一六七八)に企救郡において新地の検地が行われたが、ほかの五郡では実際の調査は行われなかった。企救郡のみは、上記の②の時期の石数に含まれていることになる。ほかの郡は「六分上米」という形での年貢として添え上納になるから、含まれていないと考えるべきであろう。