「水帳」については、「各水掛毎ニ第一番ヨリ……幾百番ニ至ル番号ヲ付シ、(中略)地位反別ヲ記シ(例ヘハ上々田何反何畝、下畑何畝何歩半ト)肩ニ字ヲ、腹書ニマチ数及ヒアセ数ヲ、反別ノ下ニ、地主ノ名、其肩ニ検地帳ノ名ヲ某分ト書セリ」(「豊前旧租要略」『県資』第八輯五九二~五九三ページ、「豊前旧租要略」を「旧租要略」と略す)と説明されていることから、検地帳をもとに、再編成されたものとみて差し支えない。
小倉藩の「新田畠」は細川氏から受け継いだ実高から表高(朱印高)一五万石を差し引いたものを指しているので、一般にいわれている。〝新田開発〟はそれ以降の開墾に基づく新田畠をいう。安政元年(一八五四)の調べでは合計で二万五五七九石余であった(「旧租要略」『県資』第八輯六一一ページ)。その内訳は次のようになっている。
①寛永九年(一六三二)―寛文四年(一六六四) | = 三二年間 | → 二万一三四三石余(八三・四パーセント) |
②寛文四年―貞享元年(一六八四) | = 二〇年間 | → 三一三一石余 |
③貞享元年―安政元年(一八五四) | =一七〇年間 | → 一一〇四石余 |
このように、小笠原氏の〝新田開発〟は①寛永九年の入国後の三二年間で、この〝新田開発〟の全体の八三パーセント近くにおよんでいる。こうして、表高+「新田畠」+〝新田開発〟の積算は一五万石+四万八八七〇石余+二万五五七九石余=二二万四四四九石余になるから、内高の一一パーセントの改め高を出したことになり、この時期の開発の多さを表している。
延宝六年(一六七八)に企救郡において新地の検地が行われたが、ほかの五郡では実際の調査は行われなかった。企救郡のみは、上記の②の時期の石数に含まれていることになる。ほかの郡は「六分上米」という形での年貢として添え上納になるから、含まれていないと考えるべきであろう。