第15表 年貢徴収の制度化 |
(「旧租要略」『県資』第8、9輯および永尾正剛編『郡典私志』) |
年 代 | 西 暦 | こ と が ら |
万治 1 | 1658 | 四ツ高の制定 |
寛文年間 | 1661~73 | 村々の年貢率が固定する。 |
寛文11 | 1671 | 小倉枡から京枡に改める。 |
延宝 6 | 1678 | 企救郡で新田検地を実施し、この結果6歩(6%)の増収となった。他郡は検地をせず、企救郡の増収量分を新地に賦課した六歩上米を命じた。 ※1 また、本田畑に四ツ高を基準にして三分(3%)上米を命じた(延宝8年まで) |
貞享 2 | 1685 | 郷中間増給入草代米の定納化 |
4 | 1687 | 反別麦の上納化 |
元禄 1 | 1688 | 二朱五厘米の上納化 |
15 | 1702 | 薪札など銀小物成の増徴 |
元禄年間 | 1688~1704 | 差上米の制度化 |
(注)表中の※1は友枝文書(No958)「延宝6午ノ歳ゟ上毛郡郡鑑本田帳 友枝手永」 |
(一) 年貢収納の基本
年貢収納の基本は、本高×免率=年貢高という方式となる。小倉藩は基本的には「免」が固定されてくるから(第16表)、豊作・平年作以外の被害の激しい状態でなければ、基本的にはこの方式をもとにした徴収法に変化はない。
第16表 小倉藩の本免の分布 |
(「旧租要略」『県資』第8輯 603ページ) |
小倉藩全 598カ村 |
企救郡 105カ村 |
田川郡 74カ村 |
京都郡 67カ村 |
仲津郡 78カ村 |
築城郡 41カ村 |
上毛郡 33カ村 |
|
7ツ3歩以上 | 1 | 1 | |||||
6ツ5歩 〃 | 3( 1) | 2(1) | 1 | ||||
6ツ成 〃 | 5( 1) | (1) | 1 | 1 | 3 | ||
5ツ5歩 〃 | 29( 3) | 4 | 8(1) | 5 | 4 | 6(2) | 2 |
5ツ成 〃 | 41( 7) | 11(1) | 7 | 6(1) | 10 | 5(5) | 2 |
4ツ5歩 〃 | 77( 6) | 22(1) | 27(2) | 5(1) | 10 | 11(2) | 2 |
4ツ成 〃 | 106(13) | 34(2) | 19(3) | 18(4) | 19 | 6(4) | 10 |
3ツ5歩 〃 | 65( 4) | 15(1) | 6(1) | 10(2) | 14 | 7 | 7 |
3ツ成 〃 | 33( 2) | 6 | 4 | 12(2) | 8 | 1 | 2 |
2ツ5歩 〃 | 23( 4) | 7(2) | 2 | 3 | 6 | 1(2) | 4 |
2ツ成 〃 | 12 | 2 | 1 | 6 | 2 | 1 | |
1ツ5歩 〃 | 1( 1) | 1 | (1) | (1) | |||
1ツ成 〃 | 2( 2) | 1(1) | 1 |
(注1) | 表中の( )内は同一村内に免が2つ以上ある村数。 |
(注2) | 表は原史料のまま作成したが、表の「小倉藩全体598カ村」は、表を合計すると398カ村となり、また同じく「京都郡67カ村」が61カ村となる。 |
(二) 四ツ高
特に、万治元年(一六五八)の四ツ高の法の制定は、小倉藩だけが用いているという特異性のあるものではない。優れて農民の負担の公平さを追求している点で取り上げることが出来る。四ツ高を基準にして課せられる負担には「諸出米」・「差上米」・「歩掛米」・「相続引」・「春免引」などがある。基本的には、夫役の賦課基準から出発したものと考えるべきであろう。四ツ高の説明として、的確にかつ易しく説明している用語としての「元高」(『北九州市史』近世編一八九ページ)を採用して、さまざまな「高」の氾濫を最小限にしたい。つまり、同書によれば、「夫役などの諸役を課す場合、年貢高(厳密には純粋の物成高に口米などの付加高を加えた納米総量)に応じて負担させようというのである。その方法は、平均的年貢負担率である四公六民(一〇分の四上納、四ツ成)を、全田畑の共通免率と仮定し、この免率と年貢高から逆算して得る元高を四ツ高と称した。本来は、元高×4/10=年貢高である。そこで、元高(四ツ高)を出すには、四ツ高=年貢高×10/4ということに」なる、こうして小倉藩では、諸役をこの四ツ高に応じて負担することになる(第17表参照)。このことは、とりもなおさず検地帳や年貢取立帳での本高が、この時点で既にいろんな負担を「高」に置き換える上で有効に働かないことを意味している。
第17表 郡別四ツ高 |
(「旧租要略」『県資』第8輯631~632ページ) |
郡 名 | 四 ツ 高 |
石斗升合勺 | |
企 救 | 48,047.13725 |
田 川 | 61,367.5708 |
京 都 | 36,275.2885 |
仲 津 | 40,846.1187 |
築 城 | 28,008.5455 |
上 毛 | 20,852.1557 |
外に小祝村 | 92.3558 |
合 計 | 235,396.81645 |
(注:合計には小祝村分は含まれていない。) |
(三) 京枡の統一
幕府は統一政権として、貨幣・分銅(秤)・枡など計量に関するものは軽視出来なかった。これらはすべて厳しい幕府の管轄下に置かれ、製作する者は限定されていた。寛文九年(一六六九)から京枡を公定枡として、これに統一した。枡の製作は江戸の樽屋と京都の福井家を枡座に指定した。もちろん、その他の者が作ることは禁じられた。
小倉藩は寛文十一年(一六七一)に公定の京枡を採用した。このため今まで用いてきた小倉枡は廃止した。小倉枡の容量は六二・五立方寸、これに対して京枡は六四・八二七立方寸であり、京枡の方が一・〇三七二倍ほど大きい。小倉枡は京枡の〇・九六四一の割合となる。単純に枡を替えて、年貢収納するとすれば、三・七二パーセントの年貢増徴にあたる。こうして、小倉枡の容量の年貢を京枡で量り直す「京枡物成」が出現するのである。
(四) 六分上米・新地六歩上米
延宝六年(一六七八)、企救郡のみ新地(前述の〝新田開発〟に相当する)の検地が行われた。こうして、企救郡でみた新地の増加率六分(六%)を京枡物成に掛けて徴収した。こうしたやり方を並(ならし)検地といい、検地帳もなく、本高はあるが反別は無いという(『郡典私志』、「旧租要略」『県資』第八輯六一四ページ)。
(五) その他の諸役目
藩制の確立期を過ぎ、貞享年間・元禄期(一六八四―一七〇四)にかけて年貢関係は調整の時期であった。
① 郷中間増給入草(ましきゅういりくさ)代米
藩主の馬の飼葉を確保するため駆り出される厩(うまや)中間の人数不足を補うのに必要な費用を村々か
ら徴収し、また飼葉購入費を一部負担させた。
② 反別〓
細川氏の時代に始まった備荒貯蓄的性格の強いもので、貞享四年(一六八七)からは倍増された。領内全
体で一三〇〇石余りで、徴収は一反につき大麦二升・小麦一升の合計三升である(「旧租要略」『県資』
第九輯七〇三ページ)。
③ 小物成
一般に年貢といわれるものは「本途物成」のことで、田畠の収穫物に掛かるものである。山林・藪など
の土地の利用によって生じる利益や産物に掛かる税を小物成といった。米小物成(米納)・銀小物成(銀
納)の二種類がある。前者には ① 請藪(うけやぶ)年貢 ② 茶年貢 ③ 竹皮代米 ④ 葭(よし)代
米 ⑤ 土手萱(かや)代米がある。後者は薪札運上と各個人に掛かる諸種の営業税をさす。
ア. 山林は、初めはすべて藩有林であった。領民が日常生活に必要とする薪や草などの採集には、その身
分に応じて馬札や歩行札が配布されていた。これを「薪札」(=鑑札)という。当初の薪札運上は一枚に
つき三匁・二匁五分・二匁・一匁・五分の五段階があった。
元禄十五年(一七〇二)の法改正で四ツ高一〇〇石につき一匁五分上納の馬札三枚と七分上納の歩行札六
枚を与え、無高の村は軒別一〇軒につき七分上納の歩行札五枚を給付して、一村につき一枚の大木札を出
すことにした。その結果、各村とも上納高は増額となる、これまでの上納定額は本土蔵に納め、増額分は
郡代管理の郡土蔵に納めることになった(第18表参照)。また、この運上高は元文年間(一七三六―四一)か
らは定額となった(「旧租要略」『県資』第九輯六八六ページ)。
第18表 郡別薪札運上銀高 |
(「旧租要略」『県資』第9輯686ページ) |
郡 名 | 運 上 銀 高 |
企 救 | 1 貫439 匁5 分0 厘 |
田 川 | 1. 130. 0. 0 |
京 都 | 496. 8. 8 |
仲 津 | 503. 0. 0 |
築 城 | 522. 0. 0 |
上 毛 | 1. 200. 0. 0 |
合 計 | 5. 291. 3. 8 |
イ.「旧租要略」には「諸種」としてまとめられている銀小物成の郡別上納高は第19表に掲げる。
第19表 郡別銀小物成高 |
(「旧租要略」『県資』第9輯697~698ページ) |
郡 名 | 運 上 銀 高 |
企 救 | 652 匁1 分5 厘 |
田 川 | 1 貫532. 8. 5 |
京 都 | 463. 0. 0 |
仲 津 | 709. 0. 0 |
築 城 | 369. 8. 8. 8 |
上 毛 | 313. 4. 0. 8 |
合 計 | 4. 040. 2. 9. 6 |
④ その他
ア.五歩種子利米
細川氏時代に始まる。本高当たり五歩(五%)の率で種子籾代米を貸し付けた。元米は据え置きにして、
利子米だけを取り立て、利率は四割である(第20表参照)。
第20表 郡別五歩種子利米 |
(「旧租要略」『県資』第9輯697~699ページ) |
郡名 | 利米 | 元米 |
企 救 | 796石7861 | 1991石9652 |
田 川 | 966石5235 | 2413石8088 |
京 都 | 494石7619 | 1236石9047 |
仲 津 | 725石6354 | 1814石0885 |
築 城 | 411石4910 | 1028石7274 |
上 毛 | 331石3432 | 828石3581 |
合 計 | 3725石5411 | 9313石8527 |
但し、中津郡に限り新田にも貸し付けがあった。利米22石5斗2升5合5勺(元米56石3斗1升4合) |
イ.出精米(第21表参照)
これは時代が下がって、安永二年(一七七三)から始まったものである。年貢米のほかに、藩主の家政費
(「表御内証」「御内証」)に納める冥加(みょうが)米である。本田畑の四ツ高に掛けて上納したという。
第21表 郡別出精米 |
(「旧租要略」『県資』第9輯697ページ) |
郡 名 | 出精米高(石) |
企 救 | 200. |
田 川 | 300. |
京 都 | 150. |
仲 津 | 180. |
築 城 | 150. |
上 毛 | 52.2900 |
合 計 | 1032.2900 |