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分家の創出(新田藩)

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二代藩主忠雄が襲封してのち、寛文十一年(一六七一)九月二十三日、江戸城において弟の真方(長高)が小倉領内新田の一万石を分与されることになった。もちろん新田高分一万石は領内に散在していることから、翌寛文十二年二月、築城郡内の次の二二カ村が与えられた。
 
  湊、臼田、坂本、岩丸、奈古、水原、日奈古、極楽寺、真如寺、小原、揚松、山本、安武、袈裟丸、
  下香楽丸、深野、松丸、上香楽丸、伝法寺、本庄、櫟原、寒田
(「歴代藩主 下 小笠原忠雄」『豊前叢書』第四巻二一ページ)   
 
 ただし、下香楽丸は下香楽、上香楽丸は上香楽の間違いであろう。
 そして、貞享元年(一六八四)、郷村帳を幕府に提出するに際して、築城郡二二カ村を本藩に編入し、真方には新たに上毛郡の二六カ村を与えることにした。
 
   黒土手永
  黒土、塔田、荒堀、吉木、恒冨、小犬丸、久松、三楽、鬼木、大西、野田、今市、清水町
  岸井手永、
  岸井、成恒、広瀬、堀立、梶屋、市丸、森久、六郎、高田、安雲、緒方、小石原、皆毛
 
 この両手永、二六カ村の本高・田畠畝数は次のとおりである。
 
  田畠八五〇町八反三畝二〇歩五厘
   田六六三町六反六畝六歩
   畠一八七町一反七畝一四歩五厘
  本高一万石七勺
   物成四四二八石八斗五升六合七勺
   京枡物成五五八二石一斗三升四合三勺
(「旧租要略」『県資』第9輯七一七~七一八ページ)   
 
そして、分家させるにつき、本藩より第22表のような家臣が配置された(『豊前市史』上巻五八五~五八六ページを参考)。
第22表 新田藩の家臣団
(西日本文化協会・福岡県地域史研究所編『福岡県史』近世資料編 『御当家末書』(下)95~96ページ)
江戸御留守居役葉山十郎兵衛直重
御小性赤沢次郎三郎昌明・遠藤六之助武重
進藤与次右衛門正隆・三隅彦兵衛尚鎮・辻忠左衛門森定(定成)・矢島弥左衛門勝之・十河小兵衛一房・中村七兵衛正定・中村弥三左衛門秀直・植野源大夫正芳
御賄役友松権六正元
御右筆松村五左衛門季成
御進物役緒方茂左衛門道堅
御役人懸川治大夫重行・青木久左衛門友清・磯野喜右衛門安利
御酒部屋湊与一兵衛吉久
御台所役藤井久左衛門広高
御歩行中村杢右衛門忠次・野山八郎左衛門満仲・西川十之助正富・岩附利右衛門正勝・永野八平徳良・田沢弥五兵衛芳充・山田市郎左衛門元矩
茶坊主森川甚斎・上原徳人・中西玄斎・岡本閑竹

 家老職は、本藩の家老が兼任(付家老)し、郡政一般は本藩の郡代が統括した。「領知」は上記の各村であったが、本藩の史料の中には「御領分」として現れる。藩主は小倉城下の篠崎口門近くに邸宅を構え、一般には「御屋敷様」・「篠崎侯」と呼ばれ、『いわゆる支藩』ではなく、小倉藩内における分家待遇という位置付けなのである」(『豊前市史』上巻近世編五九三ページ)。