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藩札の発行

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勝手方引請けの家老である渋田見勘解由盛治によって、「延宝の治」といわれる藩の財政再建が行われたという。延宝五年(一六七七)大里(現北九州市門司区)で銅山の採掘が行われ、門前市を成すという繁栄がみられた(「小笠原忠雄公年譜」)。
 『北九州市史 近世編』の『第一編第三章第三節 寛文・延宝期の治政』によれば、藩札の発行はおおむね次のとおりである。延宝六年二月、小倉藩は藩札(銀札)の発行を幕府に申請、三月に許可を得て六月に通用を開始した。藩札の通用は、寛文元年(一六六一)の福井藩が最初であり、小倉藩は十二、三番目であった。この年の発行の札は、二分・三分・四分・七分・一匁・五匁・十匁の七種で、二分以下の小額については銭の使用を許可し、二分以上の取引については金銀の使用を禁止した。藩札の図柄については、二分札は蛭子(えびす)、三分札は大黒、四分札は狸々(しょうじょう)、七分札は布袋(ほてい)、一匁札は帆かけ船、五匁札は鶴と亀、十匁札は高砂の翁媼(おうおうな)と、それぞれ七福神をあしらった図柄という。
 ところが、発行や通用量や組織など肝心な点については、全く史料を見い出しえない。この銀札は、幕府の命令によって宝永四年(一七〇七)に発行停止となった。