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地方知行制から蔵入地化へ

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延宝六年(一六七八)六月、家臣の地方知行を廃止し、これを蔵米支給に切り替えた。これを蔵入地化(蔵米制)という。小笠原氏は寛永九年(一六三二)の小倉入封当初、すべて蔵米知行としていた(前述)が、寛永十四年(一六三七)から地方知行と蔵米知行の二種類の知行制を採用していたという(『御當家末書(下)』)。その後、寛文九年(一六六九)には家臣俸禄制の手直しを行い、扶持米・切米取の家臣の召し抱えは、原則として一代限とした。しかし、このため断絶する家が続出し藩内が混乱したため、延宝二年(一六七四)には中止し、断絶した家々を再興させた(『北九州市史』近世編二五九ページ)。また、地方知行の家臣については、寛文九年五月、近習者の知行地免率を三ツ八歩から四ツに切り上げ、知行地は企救・田川郡に設定し、外様家臣の免率も三ツ五歩から三ツ八歩に切り上げ、知行地は京都・仲津・築城・上毛郡内で与えることにした。このように、「知行地といえども、その免率は藩が決定し、近習者(譜代家臣)はなるべく城下近くに、外様は遠隔地に知行地を設定」(『北九州市史』近世編一九四ページ)するといったやり方で、家臣の知行地編成とその扱いの違いを出していたのである。
 まさにこのような大きな変革をなした前年の延宝五年の「小倉藩の知行帳」があるので示しておく(第23表参照)。
第23表 延宝五年 小倉藩知行一覧
(「延宝六年小倉藩地方知行帳」『県資』第5輯 508~615ページ)表中の単位は石である。
人 名知行高人 名知行高人 名知行高
宮本伊織4,000和田善兵衛350伊藤甚右衛門200
大羽内蔵助2,000宿久善左衛門300観興寺七兵衛200
長坂源兵衛2,000矢島伝左衛門300野島八郎兵衛200
吉岡三郎兵衛2,000山内平太左衛門300青木久右衛門200
丸田権右衛門1,500大塚八郎兵衛300高橋弥五右衛門200
渋田見勘解由1,500吉岡佐左衛門300古市宗理200
小笠原帯刀1,500八田六左衛門300竹中七郎兵衛200
伊藤作左衛門1,300竹内政之丞300(不 詳)200
二木勘右衛門1,100伊藤半左衛門300松原三右衛門200
小笠原権左衛門1,000高橋又助300橋村三郎右衛門200
矢島善右衛門1,000家原藤右衛門300大輪市次郎150
島村重左衛門1,000原軍左衛門300志津埜右次右衛門150
渋田見喜左衛門800比野五左衛門250金沢喜太夫150
平井小左衛門750香坂元右衛門250岩付五左衛門150
朝比奈左太夫700勝野甚兵衛250山田八兵衛150
高田亦兵衛700浦野万右衛門250勝俣五太夫150
大池郷右衛門600熊井源右衛門250平林茂兵衛150
茂呂清右衛門600田中三太左衛門250内藤市郎右衛門150
小笠原平四郎500石川与次太夫250原六太夫150
杉生久兵衛500筧縁菴250辻嘉左衛門150
福与七左衛門500二木文太夫200津田六兵衛150
沼田藤助500依田半助200山口左次右衛門100
西一鷗500中山重左衛門200河井皆右衛門100
二木市右衛門450由江九郎右衛門200中島七右衛門100
内藤市右衛門400伴政右衛門200高橋七郎右衛門100
梅津武左衛門400中野与左衛門200  
山口久左衛門350勝野角左衛門200その他合計(注12107.1
小江伊右衛門350遠藤伝八200総 計41,257.1
(注1)別表参照――第23表のa、b 惣庄屋・寺社領以外の者は「御蔵米渡之事」とあり、この史料は知行取りだけで作成されたものである。

 この表によれば、知行取家臣は八一人で、その総高は三万九一五〇石である。惣庄屋は全二四人で総高一一七〇石となり、一人平均四八石余(四〇~七〇石)であった。寺社領が九三七石余あった。こうして、知行地総計は四万一二五七石余となっていた。
第23表―a 惣庄屋知行割
惣庄屋名知行高惣庄屋名知行高惣庄屋名知行高
企救郡210京都郡200築城郡110
城野理右衛門50久保次郎兵衛50八田傳右衛門60
富野次郎右衛門40延永喜左衛門50角田権兵衛50
片野伊左衛門40新津清三郎50
小森三郎右衛門40黒田忠兵衛50
津田八兵衛40
田川郡270仲津郡210上毛郡170
上野市郎兵衛45長井傳右衛門70友枝太兵衛70
金田六兵衛50元永五郎兵衛50大村弥右衛門50
猪膝太郎右衛門50津留太兵衛50三毛門傳右衛門50
添田平兵衛40伊良原重左衛門40
伊田九郎右衛門45  
香春喜左衛門40合 計1,170

第23表―b 寺社領知行割
寺社領知行高
榎倉太夫400
峯高寺150
威徳院100
閼伽井坊100
祇園領105
合 計855

 蔵入地化とは、これらの知行地の年貢米を一括して藩庫に収納し、その後に藩士に分配することであるが、藩にとっては大量の現米を扱うことができ、さらに知行地農村を直接支配する体制となって領内一円を政策展開の場にしていくために都合のよいことになるのである。