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小倉城築城

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寛永元年(一六二四)十一月二日、第三回の回答兼刷還使(朝鮮通信使)の副使は「五層の城楼あり。塗るに白玉を以てし、望めば雪山の如し、人家甚だ盛んにして、大野に弥満す、白沙翠竹、一〇里に綿連す、場外に濠を鑿ち、上に虹橋を駕し、以て商舶を通す、即ち豊前の地にして、号して小倉と為すものなり」(『北九州市史』近世編七五八ページ)と記し、その壮麗さに目を奪われている。
 幕府の『筑前筑後肥前肥後探索書』によれば、寛永期の小倉城の様子は次のとおりであった。
 
  一、本丸北ノ方西東へ百間、南の方ハ八十間、北南へハ百五十間
  一、天守之台高さ十間程に見へ候
  一、東之方石垣高さ四間
  一、西南の石垣高さ八間、北一所ハ七間程
  一、堀之広さ北西南三方共ニ十間、天守之北之方堀広さ十五間
  一、本丸内之石垣高さ四間程
  一、矢倉数十三(下略)
 
と記され、壮大な城を構えていることが分る。細川忠興の手によって築城されたもので城内には本丸、天守閣、北の丸や米蔵などが造られた。天守閣は五層で、一層から四層までは白く、五層目は黒く塗られていて四層よりも大きく造られていた。これは四階と五階の間に屋根が省かれたためにできたためであった。このように変わった造りであった。これを「唐(から)造り」とかいわれたり、〝南蛮造り〟とか称されるが、確たるいわれは不明である。南蛮造りといわれることについては「全く根拠の無いこと」であり「朝鮮半島の各城郭の構造を学び(中略)その影響を受けたもの」として「唐造り」と呼ばれたのではなかろうかとの見解がある(『北九州市史』近世編八一ページ)。
 延享三年(一七四六)の幕府巡見使への返答書では、天守閣の高さは台場より二二・二三メートルで、石垣は一七・一メートルであって、水際からの高さは三九・六九メートルとなっている。城の東を流れる紫川と、西を流れる板櫃川を天然の濠とした。寒竹川の中津口付近から北方の海にいたる約一・三キロメートルあたりに濠をつくり、東側の外濠とした。この外濠と紫川の間は荒れ地が多かったが、これを開いて東曲輪(くるわ)とした。また、海岸線から南約一・五~八キロメートルの線に南側の外濠を掘って、紫川からこちらの方面(小倉城側)を西曲輪とした。こうして、小倉城域は外濠から考えると東西約二キロメートル、南北一・三キロメートル、周囲は八キロメートルになったことになる。そして、城の中枢部付近に位置していた長円寺などを移転させ、平城ながら北側は海であり、また縦横に濠を巡らし、さらに溜池までも用意して堅固な守りの城郭を造り上げた。
 従来、二の丸、三の丸は武家屋敷地帯(家老や重臣の屋敷)であったが、一国一城令(元和元年=一六一五)の出される前の築城であったので、家臣団の半分は領内の各城に派遣していたので、残りの家臣を主として西曲輪に住まわせた。東曲輪には陪臣たちを住まわせ、商人と職人の町に成長させようとした。記録としては後のものである『小倉商家由緒記』によれば、細川氏とともに丹後宮津から一緒に来た者五軒、細川氏の城下町建設にともない小倉に来住した者は二四軒(合計二九軒)となっている。天明年間(一七八一―八九)での主な小倉商家は六二軒であるから、細川時代にその中核が形成されたことが分かる。
 細川氏時代の城下町の諸施設は、第24表のとおりである。
第24表 細川氏時代の小倉城下の諸施設
(『北九州市史』近世編83~84ページ)
諸施設・城下町名
城の中心部天守、本丸、松ノ丸、北ノ丸、小天守、大御台所、台所、書院、御広間、つるの間、御納戸、
表納戸、奥の御納戸、口の御納戸、御家人屋、御数寄屋、御地震屋、御花畑、御薬蔵、
御薬蔵わきの長蔵、御馬屋、松ノ御丸中御奉行書、風呂
城 門大手門、けやき門、鉄門、西魚町うら門、手拭町うら門、祇園浜手の門、川口門、
大門のわき浜手の門、大門、中津口門、香春口門、門司口門、到津口門、紺屋口門、若松口門、
蟹喰口門、東猟師町海手の門、中島門、築地門、中島橋端の門、馬喰町海手の門、
松山権兵衛口の門、須崎久左衛門預りの門、日田橋口門
城内周辺部東の溜池、西の溜池、東の御茶屋、西の御茶屋、東の御花畑、西の御花畑、溜池の御茶屋、
安国寺南の櫓、坂根後の櫓、太鼓の矢倉、御門の後の矢倉、東の馬場、清水の馬場、
東小倉迄廻しの馬場、口の御番所、門司口の御番所、河口の御番所、太鼓の番、人留の番、
牢、古牢、町牢、新牢、しち部屋、堺町のごぜ所、社倉、中島御蔵
橋 梁大橋、豊後橋、西の溜池中橋、丸橋、中島橋
町 名(東曲輪)
魚町、堺町、大坂町、米町、鳥町、船場町、馬喰町、東猟師町、円応寺町、中島、弓町、門司口、
中津口、香春口
(西曲輪)
西魚町、もろ町、職人町、手拭町、不断町、田町、紺屋町、蟹喰町、侍町、二階町、若松口、
到津口、高月口、黒崎口

 また、小倉祇園太鼓で著名な八坂神社(祇園社)を、細川忠興は京都から勧請して、祇園祭と神事能を行うようにした。これは江戸時代を通じて発展していくのである。
 主要道路は、幕末期の記事ながら、次のように厳しく取り締まっていた。「外廓の北部を国道東西に貫通す。東は門司口門、西は筑前口門。此の両門は昼夜解放、常に物頭足軽弐拾人を引率して之を守る。此の国道城下の中央紫川に仮設したる常盤橋西側に番所あり。物頭足軽を引率して昼夜勤番す。」(「藩政時状記」『県資』第五輯六八三ページ)といった警備体制をしいている重要道路の様子を紹介している。なお、常盤橋は細川氏時代の大橋のことである。また、中津街道に中津口門、秋月・久留米・日田・田川街道には香春口門があって、この門の二カ所には二重角の櫓、矢倉門を設けて「要害堅固」な造りをして、朝七ッ時より夜九ッ時まで開門し、特別の理由がなければ通行は許されなかった。そのほかの篠崎下の門、紺屋口門、敷石口門のこの三門は「明かす(開かず)の門」と唱え、夜中は通行を禁じていた(「藩政時状記」同前ページ)。